事跡:
長和3(1014)年、出生?
長元8(1035)年5月16日、『賀陽院水閣歌合』にて方人を勤める
長久3(1042)年閏9月晦日、高陽院で開催された歌合に参加
永承2(1047)年12月1日、六位蔵人・式部少丞
永承3(1048)年10月11日、五位?・駿河権守
永承5(1050)年、淡路守赴任?
天喜4(1056)年、これより以前 皇后宮少進
康平2(1059)年、皇后宮大進?
治暦2(1066)年1月14日、五位蔵人・左衛門権佐
『滝口本所歌合』出詠
治暦3(1067)年1月5日、叙従四位下・蔵人去る
延久元(1069)年、越後守赴任?
延久4(1072)年、越後守任終(『朝野群載』第26)
承保元(1074)年、これより以前に家集完成か
承保2(1075)年秋、陸奥守赴任
承保3(1076)年9月12日、陸奥守見任(『水左記』)
承保4(1077)年正月、陸奥守見任(『後葉和歌集』巻九)
承暦4(1080)年1月、陸奥守延任を許される?
応徳2(1085)年10月21日、 没
和歌六人党の一人か。筑前守義通男。蔵人、陸奥守、太皇太后宮亮などを経て、正四位下に至った。四条宮、頼通家、俊綱邸に頻繁に出入りした。
能因、相模らに師事し、経信、兼房、良暹、素意、四条宮下野、周防内侍らと親交を持った。『滝口本所歌合』では代詠をした。家集『為仲朝臣集』がある。
家集:
『為仲朝臣集』は三系統に分かれる。
1.書陵部蔵本(150・568)・天理図書館蔵本 101首、連歌6句 後冷泉朝期の歌が中心、都における詠を収めたもの。
2.尊敬閣文庫蔵本・書陵部蔵本(501・228)など 70首、後三条、白河期における任国での詠、羇旅の歌が中心。
1・2の重歌数は1首。
3.群書類従253所収本・彰考館蔵本など 第一、第二両系統の合本系の伝本。1・2の両系統が私家集大成2に翻刻。
逸話:『袋草紙』
「江記に云はく、「往年六人党あり。範永・棟仲・頼実・兼長・経衡・頼家等なり。頼家に至りては、かの党頗るこれを思ひ低(かたぶ)く。範永曰はく、「兼長は常に佳境に入るの疑ひ有り」。これ経衡の怒る所なり」。また云はく、「俊兼の曰はく、「頼家またこの由を称す。為仲、後年奥州より歌を頼家の許に送る。『歌の心を遺す人は君と我なり』と云々。頼家怒りて曰はく、『為仲は当初(そのかみ)その六人に入らず。君と我と生き遺るの由を称せしむるは、安からざる事なり』」」と云々。」
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