源頼綱

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事跡: 
 万寿2(1025)年、出生。
 永承年間、六条斎院禖子内親王歌合に参加
 寛治8(1094)年、高陽院七番歌合に参加。
 承徳元(1097)年閏1月27日、「参河入道源頼国卒、頼綱者頼国朝臣男、後冷泉御時蔵人、後到従四位下年余七旬、去年出家、一日己卒去云々。」(『中右記』)。

 従五位下左衛門尉源頼国五男。母は尾張守藤原仲清女。六人党の一人、頼実の弟。『金葉和歌集』歌人仲正の父。三河・下総・下野などの守を歴任。左衛門尉。多田歌人と号す。

『今鏡』第十
三河守頼綱は歌の道にとりて人も許せりけり。我が身にも、殊の外に思ひ上りたる気色なりけり。俊頼といふ人の少将なりける時、頼綱が言ひけるは、「少将殿に歌詠まんと思し召さば、頼綱を供せさせ給へ。別の者も罷り要るまじ。洗ひたる仏供なむ、二土器(ふたかはらけ)供へさせ給へき」などぞ言ひける。その歌多く侍らめども、
夏山の 楢の葉そよぐ 夕暮れは 今年も秋の 心ちこそすれ
といふ歌ぞ、人の口に侍るめる」
続詞花集に橘資成と歌合共催、西山の山荘で歌会を開き、範永らを招いたりしている。

『袋草紙』
 後拾遺は末代の規模の集なり。然りといへどもかの時は種々の誹謗ありと云々。先づ序別様なりと云々。次に頼綱の歌指せる事なきに多くこれを入ると云々。予これを案ずるに不審なり。件の人の歌四首なり。
夏山のならのはそよぐ夕ぐれはことしも秋のここちこそすれ
夕日さすすそ野のすすきかたよりにまねくや秋のつぐるなるらん
奥山のまきのはしのぎふる雪のいつとくべしとみえぬ君かな
いにしへの人さへけさはつらきかな明くればなどかかへりそめけん
皆もって肝胆に染む。これ耳を尊び目を卑しむる誤りか。
『袋草紙』
頼綱朝臣は能因に遇ひて云はく、「当初能因東山に住むの比、人々相ひ伴ひて行き向ひて精しく談ず。能因云はく、「我れ歌に達するは、好き給ふる所なり」と云々。
『袋草紙』
頼綱朝臣、この道を好みて年を経し者なり。

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