事跡:
寛弘7(1010)年ごろ、出生
長暦2(1038)年10月7日、六位蔵人見任。
長暦3(1039)年1月1日、「今日蔵人範基頼資蒙勘当了、頭弁奉之者、晦日追儺四方拝并御簾等行事範基也、而与頼資相論之間、不勤件事退出、至頼資者、此度無過、而共有勘当、〜今年栄爵之巡也、如何々々」(『春記脱漏補遺』)
長暦3(1039)年11月15日、左衛門尉見任。
長久2(1041)年1月、蔵人を去る。叙従五位下。
永承年間、六条斎院禖子内親王歌合に参加
康平5(1062)年12月28日、下野守見任
康平7(1064)年9月16日、「前下野守源頼資配流佐渡国。依焼亡上総介橘惟行館并殺害人民之愁也」(『扶桑略記』)
12月5日、土佐国に流される
治暦2(1066)年7月2日、「被免流人前下野守源頼資并興福寺僧静範等類件」
8月24日、没
従五位下左衛門尉源頼国二男。母は備後守藤原師長女。源頼実の異母兄。
出生年度は不明だが、頼国三男頼実が長和四(1015)年、四男実国が寛仁4(1020)年、五男頼綱が万寿2(1025)年の出生であることにより推定。
国司の館を焼亡させて佐渡国へ流罪になるなど、粗暴な一面もあったらしいが、頼通家蔵人所歌合に参加したり、橘資成を歌合を共催したりと、和歌に堪能であったらしい。『続詞花集』に範永が頼資の西山の家で詠んだ歌が採られている。
勅撰集入集歌なし。
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