事跡:
寛弘2(1005)年、出生六位蔵人
治安元(1021)年1月24日、右衛門少尉
治安2(1022)年1月27日、式部少丞・侍従・従五位下
治安3(1023)年2月18日、五位蔵人・右兵衛佐
万寿2(1025)年1月6日、従五位上
万寿3(1026)年10月26日、民部少輔
万寿4(1027)年1月7日、正五位下
長元元(1028)年2月19日、左少弁
長元3(1030)年11月5日、右中弁
長元4(1031)年2月17日、蔵人去る・従四位下
11月16日、従四位下
長元7(1034)年1月5日、従四位上(行幸上東門院賞。父済政朝臣譲之)
長元8(1035)年10月16日、権左中弁
長元9(1036)年2月27日、兼右京大夫
10月14日、兼摂津守。止右京大夫。
長暦元(1037)年11月、正四位下(石清水賀茂行幸行事賞)
長暦2(1038)年6月26日、 左中弁
長暦3(1039)年12月16日、右大弁
長久4(1043)年9月19日、蔵人頭
寛徳元(1044)年1月7日、正四位上
1月30日、兼近江権守
12月14日、参議
寛徳2(1045)年10月23日、左大弁
永承元(1046)年11月13日、従三位
永承4(1049)年2月5日、兼播磨権守
永承5(1050)年6月5日、『祐子内親王家歌合』に参加
9月17日、兼太宰大弐、去左大弁・播磨権守
11月11日、正三位(赴任賞)
天喜2(1054)年11月28日、大弐を辞す
天喜4(1056)年2月3日、兼美作権守
天喜5(1057)年1月5日、従二位(造宮行事賞)
康平元(1058)年1月30日、兵部卿
11月8日、兼勘解由長官(止卿)
康平3(1060)年8月17日、病により出家
8月23日、没
父は従三位修理大夫源済政。母は摂津守源頼光女。神楽・催馬楽の源流を継承した。重代の管弦者で、郢曲・琵琶・和琴・笛に長じ、源経信の琵琶の師でもある。和歌にも優れ、『太宰大弐資通卿歌合』を主催するほか、『中右記部類紙背漢詩集』に3首の漢詩もみえる。鞠にも秀でていた。伊勢大輔・相模・和歌六人党と交流があった。『更級日記』作者が春秋論を交わした相手もこの人。『続古事談』『続教訓抄』『文机談』等に逸話を残している。
『十訓抄』249
大弐資通、管弦者を伴ひて金峰山に詣づる事
大弐資通卿、管弦者どもを伴ひて金峰山にまうづる事ありけり。下向の時、路次にふるき寺あり。その寺におりゐてやすみけるついでに、その辺を見めぐりけるに、一人の老翁のありけるを呼びて、「この寺をばなにといふぞ」と問ひければ、翁、「これをば豊等寺と申し侍り」とこたふ。また寺のかたはらに井あり。「これ榎の葉井と申す」といふ。また、「うしろの山はなに山といふぞ」と問ふ。「この山は葛城山なり」とこたふ。人々これを聞きて感涙をたれて、おのおの堂に入りて寺をうちはらひて、葛城を数反うたひて帰りけり。
『十訓抄』第十 70
太宰大弐資通は、琵琶に名を得たりける上、是に心を入たること、人に勝れて、しばしもさしおく事なかりけり。殊なる念誦もせず、毎日持仏堂に入て、仏前にて比巴を引て、人に数をとらせて、是を廻向し奉けり。能心にしめる也けり。然れども、みかどより玄象こそ腹立にけれ。」と謂ひけり。後に、かの資通の弟子経信卿、しらべ得ざりければ、「済政いへる事あり。今も其詞の如。」とぞ、時のひと云ける。これは、此人々の未至おりの事にや、覚束なし。
『後拾遺和歌集』雑二
大弐資通、むつまじきさまになんいふと聞きてつかはしける 相模
まことにや そらになき名の ふりぬらん あまてるかみの くもりなきよに
『金葉和歌集』雑部上
大弐資通忍びて物申しけるをほどもなくさぞなど人の申しければよめる
いかにせん山田にかこふかきしばの暫しのまだに隠れなき身を
『新古今和歌集』恋三
人しれず忍びける事を文などちらすと聞きける人につかはしける
いかにせんくずのうらふく秋風に下葉の露の隠れなき身を
『続後撰和歌集』
文を人にみすとききける人につかはしける
いかにせんしほひの磯の浜千鳥ふみ行くあとも隠れなき身を
『相模集』
人のしるべきほどにもあらぬことを、残りなくふみよりはじめてあらはすときく人に、こりずまにちかくよとりよせて、よひゐのてならひにかきつくる
いかにせんくずのうらふく秋風に下葉の露の隠れなき身を
いかにせんとかりの原にゐる鳥の恐ろしき迄隠れなき身を
いかにせんとけてもみえぬうたたねの夢ばかりだに隠れなき身を
いかにせんわが濡衣の色ふりてあしのしたにも隠れなき身を
いかにせんおき漕ぐ舟のしるくのみ波に浮きつつ隠れなき身を
いかにせんしほひの磯の浜千鳥ふみ行くあとも隠れなき身を
いかにせんひとも渡らぬこひ川のあとに流れて隠れなき身を
いかにせんほどなき袖のこもり江に沈める恋の隠れなき身を
いかにせん山田にかこふかきしばの暫しのまだに隠れなき身を
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