藤原義忠

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事跡: 
 永観2(984)年、出生。
 寛弘4(1007)年4月26日、殿上作文の文人として初出(『御堂関白記』)
 長和4(1015)年、大和宣旨、道雅の子・観尊を出産
 長和5(1016)年、9月以降、藤原道雅、三条院皇女当子内親王と密通
 寛仁3(1019)年ごろ、大和宣旨、道雅と離別し義忠と結婚
 万寿2(1025)年5月5日、阿波守在任中、『阿波守義忠朝臣歌合』を主催
 長元5(1032)年10月18日、『上東門院彰子菊合』に詠進
 長元6(1033)年2月16日、関白頼通の白河邸で催された子の日の宴で
                   頼通の宇治院別当だったため序文を作成、
                   講師となる。従四位下
 長元9(1036)年10月14日、任大和守(『範国記』)
            大嘗会和歌作者に選ばれる
 長暦2(1038)年、正四位下として見任(『弁官補任』)
 長久2(1041)年2月12日、『弘徽殿女御十番歌合』において判者を勤める
            10月1日、没 (『帝王編年記』)
            10月10日、「権左中弁兼大和守藤原義忠入部之間、
                     陥没吉野河卒」 (『扶桑略記』)
            11月1日、吉野川に舟遊中、転覆死。(『弁官補任』)
            侍読たるにより、参議従三位を追贈さる

 大和守勘解由次官源為文の子。東宮学士、権左中弁。正四位下に至る。
 『本朝続文粋』に漢詩が残る。『頼実集』に頼実と共に遍照寺を訪ねたことが記されている。



『袋草紙』
 義忠は大和守たりし時、吉野河に遊浮の間、水に入りて死去すと云々。
『袋草紙』
 弘徽殿女御歌合<閑院太政大臣女、十番> 長久二年 右勝
 判者 大和守藤義忠朝臣 家経・相模等の難判有り。
『袋草紙』
 古今の歌合に、一番の右の勝つ例多くは見えざる者なり。ただし弘徽殿女御歌合は、義忠これを判く。
 一番 霞
    左                                 相模
  春のくる朝の原のやへがすみ日をかさねてぞたちまさりける
    右 勝                              侍従乳母
  春はなほちぐさににほふ花はあれどおしこめたるはかすみなりけり
 この朝の原、ひとところに八重よりもまさりてたちそふとはべるは、かしこばかりに春の心いぶせく見えはべめり。
『袋草紙』
 義忠朝臣歌合 万寿二年五月五日 任国においてこれを合はす。自らこれを判す。
七番 なでしこ露に匂ふ
 なでしこの露ににほへるませのうちはその色ならぬ草もめでたし
   勝
 なでしこはとこなつにさく草なれど露ににほへる色はことなり
 左、ませのうちのことぐさをさへめでたしとよめる心は、武蔵野のむらさきのたとひをひきて、この花のめでたきよまむとするほどに、心はあまりて詞のたらぬなり。右、ふることなれば、歌のすがたはあらはれにけれど、させることはなければ、すまひぐさの勝にだにとるならん。
八番 水上の夜の蛍
 さみだれのやみはあやなしみぎはなる蛍の光かくれなければ
 いさりぶねさをさしのぼる水のうへに蛍はよるぞ光ましける
 左、「やみはあやなし」とよめる、「いろこそみえね」と云ふ二の舞のをこがましさに、右、いさりぶねさしすぎて、かがり火の見えねば、歌面のつづき心得がたくて、西の京のつつみの心地してなむ。


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