能因

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事跡: 
 永観元(988)年、出生
 長保年間(999〜1003)ごろ、大学寮入学、文章生となる
 寛弘6(1009)年、大江嘉言、対馬守任官時に歌を贈答
 寛弘8(1011)年、公務で甲斐国へ行くか
 長和2(1013)年ごろ、出家
 治安元(1021)年、三河の源為善を訪問するか
 万寿2(1025)年、1回目の奥州下向
 長元元(1028)年ごろ、2回目の奥州下向
 長元7(1034)年、遠江の大江公資を来訪か
 長元8(1035)年5月16日
、『賀陽院水閣歌合』出詠
 長元9(1036)年、橘義通の美濃守在任、この年美濃から帰京か 
 長久元(1040)年、伊予の藤原資業(経衡叔父)を来訪
 長久2(1041)年ごろ、兼房に同行して美作に下向するか
               この年、伊予国旱魃時に降雨を乞う歌を詠むか
 長久3(1042)年ごろ、資業に同行して伊予へ下向するか
 寛徳2(1045)年以降、家集を編纂するか 
 永承4(1049)年11月9日、『内裏歌合』出詠
 永承5(1050)年6月5日、『祐子内親王家歌合』出詠
 永承6(1051)年6月、これまで存命
  
 俗名橘永ト。橘忠望男(橘為ト男・長門守元ト男説あり)、法名融因。のちに能因と改める。肥後進士、古曾部入道と称される。摂津の難波・児屋・古曾部などに住み、多数の歌合に出詠、また奥州を始め諸国を旅した。藤原長能を師とし、和歌六人党には指導者であったらしい。私撰集『玄々集』歌学書『能因歌枕』、自撰家集『能因集』を著す。『八十島記』『題抄』は散佚。後拾遺集以降に65首入集。

家集:『能因集』
 現在4本が伝存する。自撰本と他撰本に分類できる。
(1)自撰本系 
  @宮内庁書陵部蔵本(501−205) 総歌数256首(うち2首重出)・真名序を持つ
           
  A島原松平文庫蔵本(135−30) 重出なし・真名序なし
  B榊原家蔵本             重出なし・真名序なし

(2)他撰本  
  C宮内庁書陵部蔵本(154−563) 総歌数157首、他人歌47首あり

逸話:『袋草紙』
長元歌合の日、能因きぬかぶりして、窃かに入りてこれを聞く。恋歌に、
くろかみの色もかはらぬ恋すとてつれなき人にわれぞ老いぬる
と云ふ歌を、読みたりと思ひて、勝負を聞きに参り入るなり。而して敵方より、
あふまでとせめてわが身の惜しければこひこそ人の命なりけれ
と云ふ歌を講じ出すを聞きて、窃かに退出すと云々。敵に非ざるの由を存ずるか。
逸話:『袋草紙』
加久夜の長の帯刀節信は数奇者なり。始めて能因に逢ひ、相互に感緒有り。能因云はく、「今日見参の引出物に見るべき物侍り」とて、懐中より錦の小袋を取り出だす。その中に鉋屑一筋有り。示して云はく、「これは吾が重宝なり。長柄の橋造る時の鉋くづなり」と云々。時に節信喜悦甚だしくて、また懐中より紙に嚢める物を取り出だす。これを開きて見るに、かれたるかへるなり。「これ井堤の蛙に侍り」と云々。共に感嘆しておのおのこれを懐にし、退散すと云々。今の世の人、嗚呼と称すべきや。
逸話:『袋草紙』
能因は、古曾部より毎年上洛して、大江公資が五条東洞院の家に宿すと云々。件の家の南庭に桜樹有り。その花を玩ばんが為と云々。勧童丸と云ふ童一人相従ふと云々。公資が孫公仲には常に云はく、「数奇給へ、すきぬれば歌はよむ」とぞ諷諌しける。これ公仲が子有経の語る所なり。能因はおよそ小食と云々。兼房朝臣の許に迎へられ罷るの間、菜のごときは勧めず纔かに飯ばかり食ひて過ごすと云々。兼房の君あやしみて、食物の時これを伺ひ見る処、勧童丸を喚びよせて、かの懐より紙に包みたる物を取り出だして、飯に加えてこれを食ふと云々。粉の如き物と云々。何等の物ぞやと云々。不審なり。
逸話:『袋草紙』
能因、兼房の車の後に乗りて行くの間、二条東洞院にて俄に下りて数町歩行す。兼房驚きてこれを問ふ。答へて云はく、「伊勢の御の家の跡なり。かの御の前栽の植松、今に侍り。いかでか乗り乍ら過ぐべけんや」と云々。松の木の末の見ゆるまで車に乗らずと云々。
逸話:『袋草紙』
頼綱朝臣は能因に遇ひて云はく、「当初能因東山に住むの比、人々相ひ伴ひて行き向ひて精しく談ず。能因云はく、「我れ歌に達するは、好き給ふる所なり」」と云々。また云はく、郭公の秀歌は五首なり。而して能因が歌を相ひ加ふれば六首なり」と云々。件の歌は、
郭公き鳴かぬよひのしるからばぬるよも一よあらましものを
逸話:『袋草紙』
和歌は昔より師なし。而して能因、始めて長能を師となす。当初肥後進士と云ひける時、物へ行く間、長能が宅の前にて車の輪を損じぬ。乃ち車取りに遣の間に、かの家に入りて始めて面会す。参仕の志有りといへども、自然に過ぐるの間、幸ひにかくの如き事有り。その由を断じて相互に契約す。能因云はく、「和歌は何様に読むべきや」と。長能云はく、「山ふかみ落ちてつもれる紅葉葉のかわける上にしぐれ降るなり。かくの如く詠むべし」と云々。これより師となす。仍りて玄々集に多く長能が歌を入るるなり。予これを案ずるに、件の歌は嘉言の歌なり。何ぞ後進の歌をもって証となせるや。もし僻事か。賀陽院一宮歌合に、能因の歌に云はく、
はるがすみしがの山ごえせし人にあふ心ちする山ざくらかな
時の人、意を得ざるの由を称すと云々。ある人能因に問ひて云はく、「この御歌、世もつて不審となせり。その趣如何」と。能因答ふることなし。仍りて興違ひして座を起ちて退去せし時、能因窃かに云はく、「故守は、歌をばかやうによめとこそありしか」とつぶやくと云々。故守は伊賀守長能なり。
逸話:『袋草紙』
能因、
天の川なはしろ水にせきくだせ天くだります神ならば神
これは、実国朝臣伊与守になりて下向の時、数月降らず。嘆き思ふの時、守能因に語りて云はく、「歌を詠みて三嶋明神に祈請せよ」と云々。時に詠ずる所の歌なり。仍りて大雨下りて三日三夜止まずと云々。
逸話:『袋草紙』
長元歌合の時、四条大納言入道長谷に居住す。左方の人々行き向ひて歌を撰ばしむ。能因の郭公の歌に云はく、
ほととぎすき鳴かぬよひのしるからば寝る夜もひと夜あらましものを
入道云はく、「歌合の歌には似ず」と云々。仍りてこれを入れず。予これを案ずるに、「夜居」と「夜」となほ快からざるの故か。また月の歌に云はく、
月かげのさらにひるともみゆるかな朝日の山をいでやしぬらん
この歌入るべしと云々。歌の事は古へも今も人によるか。
逸話:『十訓抄』
能因入道、いよのかみさねつなにともなひて、かのくにに下りたりけるに、夏の初、日ひさしくてりて、民のなげきあさからずざりけるに、神は和歌にめで給ふものなり。心みによみて、三嶋のみやにたてまつるべきよしを、国司しきりにすすめければ、
あまの川なはしろ水にせきくだせ
あまだりますかみならばかみ
とよみて、みてぐらにかきて、社司して申上たりければ、炎旱の天俄にくもりて、大なる雨ふりて、枯たるいなば、をしなべてみどりにかへりにけり。忽に天災をやはらぐること、たうの貞観の御かどの、蝗をのみたまひけるまつりごとにも、をとらざりけり。能因いたれる数奇ものにてありけん、
みやこをば霞とともに立しかど
秋風ぞふくしら川のせき
とよめりけるを、都にありながら、此歌をばいださむこと、無念とおもふて、人にもしられず、久しくこもりゐて、色をくろく日にあたりなして後、みちの国へ、しゆぎやうのとき、よみたるとぞ披露しける。

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