藤原兼房

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事跡: 
 長保3(1001)年、出生
 寛仁2(1018)年、中宮権亮
 長元元(1028)年9月26日、丹後守見任
 長元2(1029)年2月24日、中宮亮・丹後守兼房、叙正四位下
 長元5(1032)年10月18日、『上東門院菊合』にて講師を務める
 長元8(1035)年1月29日、任備中守(『公卿補任』藤原兼隆項)
            5月16日、『賀陽院水閣歌合』にて読師を務める
 長暦2(1038)年9月13日夜、 『源大納言師房家歌合』出詠
 長暦3(1039)年1月1日、備中守見任
 長久2(1041)年3月26日、前司藤原兼房(『春記』)
            4月7日、『源大納言師房家歌合』出詠  
 永承4(1049)年
11月9日、『内裏歌合』出詠。
 永承5(1050)年6月5日、『祐子内親王家歌合』に出詠
 天喜2(1054)年秋、播磨守(『播磨守兼房朝臣歌合』)主催
 天喜4(1056)年4月30日、『
皇后宮寛子春秋歌合』出詠
 治暦年間ごろ、隆綱卿歌合の判者を勤める
 延久元(1069)年6月4日、前讃岐守藤原兼房(『土右記』)没

 右少将などを経て寛仁2年中宮権亮、のちに中宮亮。長元2年に正四位下となり、以後没するまでその任にあった。備中・播磨・讃岐・美作・丹後等の国司を勤める。官位では不遇であったが歌道に対する執心は深く、夢の中で人丸の姿を見て、その像を絵師に描かせて拝んだといい、人麻呂影供の先駆とも言うべき逸話を残している。
 六人党との交際は、範永・為仲の家集に登場することでその親しさが伺える。能因とも親しく、相模・出羽弁とも交流。江侍従との間には一女を儲けた。『後拾遺和歌集』以下『新古今和歌集』までに12首、勅撰集に17首入集。 

『袋草紙』
能因はおよそ小食と云々。兼房朝臣の許に迎へられ罷るの間、菜のごときは勧めず、纔かに飯ばかり食ひて過ごすと云々。兼房の君あやしみて、食物の時これを伺ひ見る処、勧童丸を喚びよせて、かの懐より紙に包みたる物を取り出だして、飯に加えてこれを食ふと云々。粉の如き物と云々。何等の物ぞやと云々。不審なり。
『袋草紙』
能因、兼房の車の後に乗りて行くの間、二条東洞院にて俄に下りて数町歩行す。兼房驚きてこれを問ふ。答へて云はく、「伊勢の御の家の跡なり。かの御の前栽の植松、今に侍り。いかでか乗り乍ら過ぐべけんや」と云々。松の木の末の見ゆるまで車に乗らずと云々。

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