藤原家経

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事跡: 
 正暦3(992)年、出生
 長和5(1016)年11月21日、対策・文章得業生
 寛仁元(1017)年、右衛門尉
 寛仁2(1018)年1月10日、昇殿許可・六位蔵人
 寛仁3
(1019)年2月4日、検非違使に補任
 寛仁4(1020)年2月5日、侍読労により還昇
            10月17日、刑部権少輔
 治安3(1023)年9月7日、侍読罷免
 万寿元(1024)年3月1日、家が全焼
 万寿2(1025)年1月29日、従五位下・右少弁
 万寿3(1026)年1月7日、従五位上
            10月26日、文章博士
 長元元(1028)年、 右衛門権佐兼任
 長元3(1030)年ごろ、学士侍読?
 長元4(1031)年、備後介?
 長元5(1032)年2月8日、信濃守
 長元9(1036)年、後冷泉天皇の大嘗会和歌を詠進
 寛徳2(1045)年、このころ木工頭?
 寛徳2(1045)年〜天喜2(1054)年ごろ、『左京大夫道雅障子絵合』に参加
 永承元(1046)年、後冷泉帝大嘗会和歌詠進 
 永承4(1049)年11月9日、 『内裏歌合』出詠
 永承5(1050)年6月5日、『祐子内親王家歌合』
                  このころ讃岐守
 天喜2(1054)年5月11日、出家
 天喜6(1058)年5月18日、没

 正四位下、式部権大輔兼文章博士。後冷泉天皇の大嘗会和歌を献じ、永承4(1049)年内裏歌合、同5年祐子内親王家歌合に出詠、学儒派歌人の代表格。能因・伊勢大輔・範永らと雅交を持つほか、道長の命によって上東門院に献上する『万葉集』を書写。家集に『家経集』。後拾遺集初出。4首。
 六人党との関係は非常に深く、経衡には従兄であり義兄であり、範永とは藤原能通女である姉妹を互いに妻とする義兄弟である。特に範永とは同じ場で詠んだと思われる歌が多数あり、親しい間柄であった。  


家集:
 
『家経集』の現存諸本は書陵部蔵本(501・311)・書陵部蔵本(501・310)・彰考館蔵本・山口県立図書館蔵本・三手文庫蔵本・京都大学蔵本・田中氏蔵本が知られている。活字本としては続群書類従・丹鶴叢書・私家集大成2所収本があるが、歌数、歌序とも同一ですべて同系統。長元5(1032)年の信濃赴任の詠から、永承5年ごろの讃岐守時代までの歌108首をほぼ年代順に配す。

逸話:『袋草紙』

道雅三位は、帥大臣殿の息なり。八条の山庄の障子の絵に、歌合に読ましめて撰びて書かしむ。作者は、兼房・家経・範永・経衡・頼家等なり。

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