『袋草紙』(1159)年奏覧
引用の『江記[大江匡房(1041〜1111)]』
江記に云はく、「往年六人党あり。範永・棟仲・頼実・兼長・経衡・頼家等なり。頼家に至りては、かの党頗るこれを思ひ低(かたぶ)く。範永曰はく、「兼長は常に佳境に入るの疑ひ有り」。これ経衡の怒る所なり」。
また云はく、「俊兼の曰はく、「頼家またこの由を称す。為仲、後年奥州より歌を頼家の許に送る。『歌の心を遺す人は君と我なり』と云々。頼家怒りて曰はく、『為仲は当初(そのかみ)その六人に入らず。君と我と生き遺るの由を称せしむるは、安からざる事なり』」と云々。」
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『八雲御抄』巻六
六人が党とて其頃ののしりけるは、範永・棟仲・兼長・経衡・頼家・頼実。範永が外は歌よみとも見えず。
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『続古事談』第二 (1219)年成立
宇治殿高陽院の歌合に歌よみ人未定なりければ、兼長、経衡をめしあはせてこころみありけるに、特にさだめられけるに、兼長父の服暇になりて、経衡を入られにけり。この人々うせて後、為仲朝臣陸奥守にてありける時、国より頼家がもとへ歌をよみてをくれりけるに、「其のかみの人、のこりとどまる人、君と我となり」といへり。頼家いかりて云く、「為仲そのかみ六人の中に入らず。かくいふ事やすからず」とぞ云ける。歌読六人とは範永・棟仲・頼実・兼長・経衡・頼家。或は棟仲・経衡・義清・頼家・重成・頼実なり。
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『十訓抄』第一、53
大江匡房記云、和歌の道にとりて、往年六人の党あり。所謂範永棟仲頼実兼長経衡頼家等也。年経て彼輩みな逝去して、頼家ばかり残りたりけるに、為仲といふもの、奥州より頼家がもとへ歌ををくるに、きみとわれとなまじゐに生残るよしをよめり。頼家怒て云、「為仲そのかみの六人の党にいらず。今君とわれとわづかに生残るよし、やすからぬこと。」とて返歌に不及けり。
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陽明文庫本『後拾遺和歌抄』巻一、春上、23の頭注
範永・棟仲・兼長・頼実・経衡・頼家、時人称「六人党」。
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