源兼長

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事跡: 
 長和4(1015)年、出生
 長元8(1035)年以前、式部丞
 長元9(1036)年2月27日、六位蔵人
 長久2(1041)年2月12日、『弘徽殿女御十番歌合』出詠
            4月7日、『権大納言源師房家歌合』出詠
 長久3(1042)年閏9月晦日、高陽院で開催された歌合に参加
 永承4(1049)年11月9日、『内裏歌合』出詠
 永承5(1050)年6月5日、『祐子内親王家歌合』に出詠
 天喜3(1055)年2月、没(内閣文庫本『勅撰作者部類』)
 天喜5(1057)年12月25日、出羽守解任(『扶桑略紀』)

 和歌六人党の一人。備前守・讃岐守などを歴任。極官は正五位下。後拾遺集のみ入集。

逸話:『袋草紙』
「高倉一宮歌合に、歌人は、左、大弐三位・江侍従・伊勢大輔・出羽弁・小弁・相模なり。右、資業・兼房・家経・範永・能因の五人なり。今一人の所を兼長・経衡これを競望す。而して両人入るれば、女房一人不足なり。また一人を抽きて入るれば、同じき者より怨望さる。また共に入れざれば、女房一人除くべし。宇治殿思し食し煩ひて、ここに堀川右府、加賀左衛門をもって枉げて吹挙す。許容なし。これいまだ至らざるの故か。仍りて兼長・経衡等をもって試み有り。当座に題を賜ひて云はく、「水辺の款冬(やまぶき)」。兼長の歌に云はく、
いかなれば岸にやへさく山吹のひとへに色のそこにみゆらん
経衡の歌に云はく、
池水にさきかかりたる山吹を底にしづめる枝とみるかな
右府判じて云はく、「持なり」と。これ両人を入れて、女房不足の所に左衛門を入れんの志と云々。満座兼長の勝と思へり。然る間に兼長服暇に成りて、遂に経衡を入る。昔の事は能く清撰有るか。」

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