藤原道兼

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 藤原兼家の四男。母は藤原中正女時姫。
 容貌・人柄は『栄花物語』に「御顔色悪しう毛ぶかく、事の外に見にくくおはするに、御心さまいみじうらうらうしう、雄々しうけおそろしきまで、煩しう、さがなうおはし」と表現される。
 花山天皇の突然の出家と退位を成功させた張本人。兄道隆の病没後、関白に任ぜられたが直後に流行病のため没した。そのため「七日関白」と呼ばれたという。

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『大鏡』肝試しの信憑性

 兼家一家の策謀で花山天皇が出家・退位させられた事件は有名だが、兼家の息子たちの中で、最も厄介な役を道兼は演じている。道兼自身が申し出たものか、それとも兼家の命によるものかわからないのだが、道兼の胆力が伺われる一件である。『大鏡』の中にある肝試しの話は、道長の剛胆さを際立たせようとしているが、道長を賛美する『大鏡』作者の立場を考えると、素直に事実だと受け取れないものがある。

道兼を支持した人々

 正暦元(989)年五月、兼家の出家に伴って摂政となったのは長子道隆であった。兼家は七月に亡くなって、道隆の時代が訪れる。だが、誰もが道隆を後継者と認めたわけではなかったようである。
 その一人が藤原在国(のち有国と改名)であった。在国は兼家の腹心の部下で、能吏平惟仲と共に、兼家の左右の目と言われていた。彼がなぜ道兼を次の主に選んだのか定かではないが、『栄花物語』によると、道隆が気を悪くするくらい道兼のもとへ出入りしていたようである。道隆は娘の定子を一条天皇の後宮へ一番乗りで送り込んだばかりか、中宮とすることにも成功し、前途洋々であった。その道隆に追従しなかったのだから、道兼によほど政治的能力が備わっていると見たのか、道兼との間に姻戚関係でもあったか、何か理由はありそうである。在国が一条天皇の乳母、橘徳子の夫であったことも、関係があるのかもしれない。
 もう一人、藤原実資も道兼に好意を持っていた人と言えるだろうか。道兼が関白就任の喜びを述べるため、藤原実資は道兼の二条邸に参上した。道兼はすでに疫病に冒され、御簾を下ろし、床に臥した状態で実資に会っている。『大鏡』にある二人の会見を描写したくだりは、『源氏物語』の夕霧が病床の柏木に会う場面を思い起こさせる。新関白のもとへ、参議である実資が参上するのは当然と言えようが、二人の仲はそうした儀礼的なものだけではない、夕霧のように親友を見舞うという暖かさがあるのは不思議である。紫式部は、あるいはこの会見をもとにあの場面を書いたのかもしれない。紫式部は後年実資と何度も接触しているから、このことを聞く機会がなかったとは言い切れまい。
 そう考えてみると、二人には共通点がある。道兼より4歳年上の実資は、25歳のときから蔵人頭を務めている。蔵人は天皇と摂関らを結ぶパイプ役で、中でも蔵人頭は花形の官職である。当時侍従だった道兼は、そんな実資の姿を目の当たりにしていたことだろう。そして、道兼も24歳で五位蔵人となり、2年後の一条天皇即位と同時に、実資が蔵人頭を辞めるのと入れ違いで蔵人頭に昇進する。二人は若いころ、2年半ほど同じ職場で働いていたのである。友人として親しくなったのは、このころだろうと思われる。どちらかと言えば、二人とも気難しいたちだったらしいが、いったん心を開くと親しくなれる、そんな関係だったかもしれない。もっとも、9年後に道兼の死んだときには官位は逆転しているが、これは道兼の父兼家が一条天皇の摂政だったからで、実資も少なくとも道兼に対しては官位のことで恨んでいる様子はない。
 実資にとって、親しい道兼の死は衝撃であったろう。が、疫病に冒された人を見舞って、感染せずにすんだことを後世の我々は感謝しなければならないのかもしれない。実資がここで亡くなっていたならば、50年書き続けられた史料『小右記』は20年足らずでストップし、道長たちの活躍するその後を語ってくれることはなかっただろうからである。 

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