藤原頼忠

ホーム 上へ

 藤原実頼の二男。母は藤原時平女。兄の敦敏が早世したため、実質は一男。
 従兄弟の藤原伊尹と同年だが、昇進は伊尹より遅く、また兼通・兼家兄弟にも圧され気味であった。後宮政策においても、娘遵子が円融天皇の皇后になったとは言え、ついに子はできなかった。
 もっとも、兼通と兼家が犬猿の仲だったため、漁夫の利で関白の座が転がり込み、円融天皇・花山天皇の関白を十年間勤めた。

ここに着目!

「栄華を極めた」割には影の薄い人

 「大鏡」には、「この生きはめさせたまへる(一生栄華を極めなさった)人」だと書かれている。たしかに、関白太政大臣になったことは栄華と言えようが、その内実はかなり問題がある。
 まず、さしたる政治能力を発揮することもなく、何となく従兄弟たちの後を追うように昇進していって、気が付いたら関白になっていたこと。従兄弟の伊尹・兼通・兼家のような俊敏さや狡猾さ、剛胆さといったものがなく、それが昇進の上にも影響が出ていることは、本人も承知していたに違いない。安和の変において、伊尹三兄弟が暗躍したであろうという推測はなされているが、そこに頼忠の名は出てこない。
 頼忠が唯一政治家として動いたのは天元元(978)年、娘の遵子の入内のときだけではなかろうか。遵子が円融天皇の皇子を生めば、将来外戚として誰憚ることのない政治ができる。そして、円融天皇自身もそれを望んでいたらしいことは、皇子を生んだ藤原詮子(兼家二女)をさしおいて、子のない遵子が中宮に冊立されたことからもわかる。だが結局、遵子は懐妊しなかった。円融天皇は譲位して花山天皇の世になる。それでもやはり、頼忠は外戚にはなれない。
 寛和二(986)年の花山天皇の出家事件でも、頼忠は何もしていない。兼家たちの計画が実行された後、道長の報告を受けただけで、あっさりと関白の地位を兼家に譲ってしまう。つまりは終始「蚊帳の外」に終わってしまった人であった。しかし、不思議なことに、頼忠自身がそれをどう思っていたか、語る史料はないようである。
 そんなおっとり型の息子に諦めをつけたのか、父実頼は後継者を孫の実資にしている。実資は弟斉敏の子だから、甥に当たる。小野宮家は莫大な財産を有していたが、その大半を甥に持って行かれてしまった頼忠の心境、いかばかりだっただろうか?

[ 上へ ]