藤原忠平

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 関白藤原基経の三男。母は人康親王の娘。
 長兄時平の在世中は影が薄かったが、時平の死後は右大臣として采配をふるい、醍醐天皇を補佐して比較的安定した政権を作り上げた。これは時平の行った国政改革と合わせて「延喜の治」と呼ばれるもので、後世の人々には理想的な天皇親政の時代であったと評価されている。しかし、実際には律令政治を維持することが困難な状況にあり、時平が守ろうとした律令制度も、忠平が氏長者となってから没するまでの約四十年の間に、急速に崩壊していくこととなった。
 人柄は温厚ですぐれており、人相見に「才能・心操・形容、かたがた国に叶う。定めて久しく奉公あるか」と褒められ、そのため宇多天皇は娘の源順子を忠平に嫁がせたという説話がある。

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兄時平・宇多上皇・醍醐天皇との関係

 忠平の兄時平は、道真追放を率先して行ったことで宇多上皇との間に大きな溝を作ったと思われる。これに対して、忠平と宇多上皇の仲は至極よかったと言ってよい。忠平は時平ほど昇進が早くなく、従って道真とは対立するどころか親交があり、道真が太宰府へ行ってからも、手紙のやり取りをしていたという話が残っている。
 また、忠平の妻で「菅原の君」と呼ばれた人がいる。宇多天皇皇女(光孝天皇皇女で、宇多天皇の養女であるという説もあり)源順子である。昌泰三(900)年に藤原実頼を生んでいることから、忠平と結婚したのは道真が左遷される前であろう。源順子はおそらく菅原道真の近親の女性を母に持っていたと思われ、宇多上皇と道真の血を引いた女性を妻にしているという事実からも、忠平が宇多上皇や道真とは決して疎遠ではなかったことがわかる。忠平は昌泰三(900)年、21歳で参議となり、一ヶ月後には宇多上皇のすすめにより、辞任して叔父の清経に譲っている。この奇妙な行為も、道真と親しい忠平を殊更目立たせまいとする上皇の意志があると見れば、理解できる。
 忠平が再び参議となるのは8年後の延喜八(908)年である。時平が亡くなる前年だが、このことは何を意味するのだろうか。

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