藤原良房

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 藤原冬嗣の二男。母は藤原美都子。
 仁明天皇の春宮時代に亮を務め、即位後は蔵人頭として仕えた。承和の変により、妹順子と仁明天皇との間に生まれた道康親王を皇太子とすることに成功、親王は文徳天皇として即位する。次の清和天皇は娘明子の皇子であり、その次の陽成天皇は養女(兄長良の娘)高子の皇子と、外戚としての地位を確立した。また、人臣最初の太政大臣にも任命され、名実ともに藤原氏の第一人者となった。藤原北家が藤原氏の筆頭になったという意味においても、良房の存在は大きい。

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大出世は親の七光り?

 良房の父冬嗣には、少なくとも8人の男児がいた。中で出世したのは一男の長良、二男の良房、五男の良相である。だが良房は、この二人と比べても格段に出世が早い。30歳のときには兄長良を追い抜いて、位は従五位上から従四位下に、官は一年で左少将から左中将へと躍進する。翌年には参議に任ぜられ、45歳で右大臣に昇る。これは冬嗣より早く、ついには人臣最初の摂政となり、冬嗣も果たせなかった外孫の即位をも見ることができたのである。
 だが、30歳の大躍進は冬嗣のおかげではない。冬嗣はそれより7年も前に没しており、当時の政界の筆頭は藤原緒嗣であったからである。良房はそれ以前から春宮亮となっており、その年即位した仁明天皇の意向に基づいて昇進したものであろう。また、仁明天皇の父嵯峨天皇は良房に目をかけていて、娘の源潔姫を妻に与えている。この結婚は、良房の器量を見込んだ冬嗣の意志も働いていただろうから、良房は若いころから長良以上に将来を嘱望されていたに違いない。
 さらに、仁明天皇の側近であったことで母后橘嘉智子との繋がりも強かった。承和の変で廃太子とされた恒貞親王は嘉智子の娘正子内親王の子、代わって立太子した道康親王は仁明天皇の子で、どちらも嘉智子の孫であるが、嘉智子は内孫である道康を皇統に立てたかったらしい。これが良房にとっては幸いした。
 もう一つ、良房にとって幸運だったのは、養子基経を得たことである。基経は長良の三男だが、長良がことにかわいがっていた基経を、長良の没後に良房が養子にしたらしい。少なくとも貞観八(866)年の応天門の変までには養子となっていて、事件のときも俊敏に動いている。晩年は病気がちだったという良房だが、こんな後継者がいれば、心配はなかっただろう。
 良房は親の七光りと言うよりは、才能と運の両方に恵まれて栄華を掴んだ人だったようである。

 

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