藤原元方

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事跡: 
 仁和4(888)年、出生
 延喜6(906)年、文章得業生
 延喜8(908)年正月、越前大掾
 延喜13(913)年1月28日、式部少丞
 延喜15(915)年1月12日、式部大丞
 延喜17(917)年1月7日、叙従五位下
            1月29日、刑部少輔
            8月28日、昇殿
 延喜18(918)年1月13日、権右少弁
            9月9日、次侍従
 延喜22(922)年1月7日、叙従五位上
            1月30日、右少弁
 延喜23(923)年1月12日、左少弁
            4月26日、兼中宮亮
 延長6(929)年1月7日、叙正五位下
 延長7(930)年1月7日、叙従四位下
          1月29日、兼左京大夫
          9月23日、兼東宮学士。去左京大夫
          11月16日、式部権大輔
          11月21日、叙正四位下(前坊学士)
 承平2(932)年8月30日、転式部大輔
 天慶2(939)年8月27日、任参議
 天慶3(940)年3月25日、兼左大弁・兼讃岐権守
 天慶5(942)年3月29日、叙従三位・任中納言(大弁労3年)
 天暦元(947)年8月5日、兼民部卿
 天暦4(950)年5月以前、娘祐姫、村上天皇第一皇子広平親王を出産
           5月24日、師輔女安子、村上天皇第二皇子
                   憲平親王を出産
 天暦5(951)年1月7日、叙正三位
           1月30日、任大納言
 天暦7(953)年、3月21日、没
 

逸話:『大鏡』
元方の民部卿の御孫、まうけの君にておはする頃、帝の御庚申せさせたまふに、この民部卿参りたまへる、さらなり。九条殿候はせたまひて、人々あまた候ひたまひて、攤うたせたまふついでに、冷泉院の孕まれおはしましたるほどにて、さらぬだに世人いかがと思ひ申したるに、九条殿、「いで今宵攤つかうまつらむ」と仰せらるるままに、「この孕まれたまへる御子、男におはしますべくば、調六出でこ」とて、打たせたまへりけるに、ただ一度に出でくるものか。ありとある人、、目を見かはして、めで感じもてはやしたまひ、わが御みづからもいみじと思したりけるに、この民部卿のけしきいとあしうなりて、色もいと青うこそなりたりけれ。さて後に霊に出でまして、「その夜やがて、胸に釘はうちてき」とこそのたまひけれ。

ここに着目!

『陰陽師』に登場する元方

 映画『陰陽師』はおそらく村上天皇の御代を舞台にしていると思われるが、当時の権力闘争は公卿たちが娘を後宮に入内させ、皇子の誕生を待つという典型的な摂関政治の様相を見せている。
 ときに天暦4(950)年7月、藤原師輔は娘、女御安子の生んだ憲平親王を生後3ヶ月で東宮に立坊させ、廟堂での勢力を確実なものとした。それと同時に、大納言藤原元方は娘、更衣祐姫の生んだ広平親王を東宮にできずに、3年後に亡くなった。彼が後に怨霊となって、師輔らを呪ったことは有名である。
 だが、元方は自分の孫が東宮になれなかったことだけで、師輔を恨んでいたのだろうか? そうではないような気がする。上記の事跡を見てもわかるように、彼は文章得業生出身者、すなわち大学で勉強して優秀な成績を取り、それを足がかりに出世していった学儒官僚だったのである。とは言え、親の七光りで出世していった師輔らに比べるとその昇進は遅い。参議になったのは52歳のとき、しかも上席には20歳も年下の師輔がいる。さしたる苦労もせず、あっという間に公卿になった師輔を、大学を出た後も式部省の役人や弁官をこつこつと勤め上げてきた元方はどんな目で見ていたか。
 入内したそれぞれの娘にしても、安子が格別美しいとか、反対に祐姫が特に劣っているとか、そのような事情があれば元方も諦められたのだろう。そうでなかったから、元方はこの世に悔いを残して没し、怨霊となるしかなかったのだ。要するに、家柄だけが物を言う社会というのは、理不尽で満ちているということだ。映画の中では、道尊という名の陰陽師(これは芦屋道満のことなのだろうか)に生まれたばかりの親王の呪詛を依頼する、おどろおどろしい人物としてしか描かれない。が、彼の生涯を振り返ってみると、その恨みの深さもむべなるかな、と思ってしまうのは変だろうか。
 ちなみに元方の怨霊はこの後、冷泉天皇に狂疾という運命を負わせ、その子、花山天皇や三条天皇をも呪い、帝位を退かせたり眼病を患うようにし向けたりしたという。70年もかかって、冷泉天皇の血筋から皇位に就く者を排除し続けた、その根性は柔弱な平安貴族にしてはあっぱれ、と言ってあげたいところである。

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