藤原師輔

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 藤原忠平の二男。母は源能有女昭子。
 父忠平の死後、兄の実頼が左大臣となるに従い右大臣に昇進、「一苦しき二(上席の実頼が心苦しくなるほど優れた次席の人)」とまで言われ、実頼以上に政界の実権を握って村上天皇の治世に活躍した。53歳で没したため位は右大臣どまりであったが、一女安子は冷泉・円融両天皇を生み、男子も5人が太政大臣に補され、栄華を極めた。度量が大きく、親しみやすい人柄で、周囲の人々の人気もあった。
 また、忠平の教命・口伝を受けて、実頼と師輔は有職故実の流派を確立したが、実頼の小野宮流に対して師輔のそれは九条流と呼ばれ、その後子孫たちに受け継がれることになった。これをまとめた「九条年中行事」がある。

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優位の師輔にも怨恨あり

 正暦四(993)年閏十月十六日、実頼の孫藤原実資は日記に以下のように記している。
「我は是れ九条丞相の霊なり。(中略)小野宮大相国の子孫滅亡すべきの願ひ、彼の時極めて深く、陰陽述を施して、彼の子孫を断たんと欲す。先を期する所六十年、其の験已に新なり……」
 折しも、当時春宮であった居貞親王(三条天皇)の更衣(藤原師尹の孫)が懐妊しており、その更衣の口から、怨霊の言葉が出た。それは師輔の霊で、60年のうちに実頼の子孫を滅ぼそうとした願いは果たされようとしているので、今度は師尹の子孫を断とうとしている、と言ったという。
 実資はこれを観修僧都という僧侶から聞いている。権力者に阿る僧侶の出任せ、とまでは言えないかもしれないが、真実かどうかは疑わしい。それよりも、実頼と師輔の確執を二人の死後二十年も経った時代の人が知っており、しかも実頼ではなく、師輔が兄に対してすさまじい怨念を抱いていたことがこの記事から窺われる。師輔の残した和歌や、世評から感じられる穏和さだけが過大評価されがちだが、師輔にはこんな一面もあったのであろう。権力闘争に敗れて死霊になった人の話は多いが、後宮政策においても実頼・師尹に勝っていながら、ここまで権力に執着しなければならないのは、少々悲しい気がする。

師輔の妻たち

 師輔がいかに権力を掌握していたかは、妻たちの顔ぶれからもわかる。当時の上流貴族の男として、人数の多いのは当たり前としても、妻の身分が異様に高いのである。皇女、しかも内親王を3人も妻にしているのは、師輔以前にはいなかった。大臣クラスの人でも、せいぜい源氏に臣籍降下した皇女か、または女王(親王の娘なので三世の王族)というのが普通である。逆に、師輔の子孫たちは内親王を妻にした人が出てくる。それでも、3人という人はいないようである。
 師輔の妻はいずれも醍醐天皇の皇女だから、師輔が摂政を務めた村上天皇の姉妹ということになる。師輔が康子内親王のところへ通い始めたとき、村上天皇は遠慮して注意もしなかった、という話が「大鏡」にある。内親王は独身を通すのが建前で、結婚する場合も父の天皇や今上天皇のお声掛かりの後に行われる正式なものであるべきだった。平安時代でも、皇女に限っては結婚の自由は極度に制限され、男を通わせることは許されなかった。実頼などは、康子内親王のことを「お前のきたなき(表向きは庭がきれいでないということだが、実は内親王の体が汚れていると暗示)」と評している。もっとも、実頼にとっては師輔が手を付けた女ゆえに貶したい気持ちもあっただろうが。

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