太政大臣藤原忠平の五男。母は源能有女昭子。同母兄弟に師輔、師保、師氏がいる。
侍従、蔵人頭を経て、26歳で参議となる。その後の出世は早く、天暦五(951)年には中納言、康保四(967)年には右大臣となり、安和二(969)年、安和の変によって左大臣となるものの、半年後に没した。当時から安和の変の首謀者と見られていたため、その報いであると世間には思われたようである。
天徳二(958)年、定方女腹の芳子が村上天皇の女御となり、皇子を二人もうけるが、両皇子とも病弱(障害児であると記録に残されているのは珍しい)であったため、皇位は望めなかった。(by
えんじゅ) |