藤原時平

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 関白藤原基経の一男。母は人康親王の娘。
 父基経の死後、親政を行う宇多天皇のもとで道真と協力することを余儀なくされたが、901年に道真を失脚させてからは、国政改革に意欲を燃やした。「大鏡」には、「やまとだましいのいみじくおはしたる人」とあり、優れた政治能力を持っていたことを表している。
 後宮政策では、妹の穏子を醍醐天皇に入内させ、生まれた皇子(保明親王)を立太子させた。しかし、時平自身は39歳の若さで亡くなり、保明親王もその皇子も後に夭折して、時平の血脈は途絶え、政治の実権も弟忠平の子孫に移ることになった。

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道真・宇多天皇との確執

 時平は基経の嫡男であるが、基経が没した寛平三(891)年には、まだ21歳であった。阿衡の紛議で基経との仲をこじらせていた宇多天皇は、天皇主導の政治を行いたいと考えたのか、関白を置くことなく親政を行った(「寛平の治」)。天皇は信頼する菅原道真のほか、地方政治に明るい藤原保則ら優秀な公卿と共に地方財政の立て直しを計った。
 だが、父のように政界の第一人者として活躍できるものと期待していた時平にとって、道真の存在はおもしろかろうはずがない。ほかの公卿たちも間でも、学者上がりの道真の異例の昇進を疎ましく思う声が多かった。寛平五(893)年、醍醐天皇を皇太子に決定したときも、宇多上皇が相談したのは道真一人であったことなども、時平が道真への反感を強める結果になったと思われる。
 時平が26歳になった寛平九(897)年、醍醐天皇が即位した。宇多上皇はその際、奏請・宣行のことはすべて時平と道真両人を経るようにと命じた。この勅を知った公卿らは、自分たちが政務から疎外されたものと解釈してボイコットし、参内しなくなった。道真は宇多上皇に取りなしを頼み、ようやく公卿たちは戻ったという。彼らの不満が道真の身分不相応な昇進や地位にあることはまちがいなく、時平はそうした雰囲気を感じて、道真の失脚を計画したものであろう。宇多上皇は帝位を降りてしまい、道真を守れる立場ではない。しかも昌泰四(901)年は辛酉の年で、変革の起こりやすい年だとする辛酉革命の思想に合致する。時平は時機到来と思ったに違いない。
 昌泰四(901)年正月、道真は突如左遷を言い渡され、追い立てられるように太宰府へ出発した。罪状は、醍醐天皇を退位させ、道真の娘と結婚している斉世親王(醍醐天皇の弟)を代わりに立てようとしたことだと記録にある。道真の真意はともかく、時平は早晩道真と対決しなければならないことは知っていたろうから、この事件で道真を追い落としたことに良心の呵責などは感じなかったはずである。
 時平の政治手腕が発揮されたのはそれからわずか10年足らず、荘園整理令など数々の業績を残して39歳で亡くなった。もう少し長命であれば、藤原氏歴代の為政者の中では優秀な人物としてもっと注目されたかもしれない。

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