藤原長良

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 藤原冬嗣の一男。母は藤原美都子。
 32歳のとき、弟良房に官位を抜かれ、以後没するまでついに追いつくことはなかった。娘の高子が清和天皇の後宮に入ったのは、すでに長良が没した後であった。だが良房とは仲がよかった。また「志行高潔、寛仁有度(行いは高潔、寛大で情け深く、度量が大きい)」と言われ、貴賤を問わず大勢の人々に慕われた。

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本当は感情的な人?

 弟良房の華々しい活躍に比べると、一男でありながら何の足跡も残していないのが長良だと言えるだろう。そのために、人柄を伺わせるエピソードも少ない。
 弘仁十三(822)年八月、不仕により昇殿を止めらる、とある。「文徳天皇実録」によれば、この年内舎人となるが、仁明天皇が春宮であったときは、あえてなれなれしくしなかった。その仁明天皇が崩御されたとき、長良は号泣したという。若き日の仁明天皇との交流を思い出して、懐かしくて泣いたのか、それとも親しくすればよかったと言って泣いたのか。
 ところで、長良自身とは逆に、子女の中にはよくも悪くも目立った人がいる。良房が養子とした基経は長良の三男だが、基経は父親と違って政治能力に長けた人であった。とは言え、何度も政務をボイコットして参内しなかったり、陽成天皇をむりやり退位させたり、やることが派手である。宇多天皇とは「阿衡の紛議」で揉めに揉め、最後には天皇に改勅までさせている。
 もう一人、清和天皇の后になった藤原高子がいる。入内前に在原業平との逢瀬を持ち、どうやら正式に入内することさえ憚られた人らしい。「伊勢物語」に載るくらいだから、世間でも噂になっていたのだろう。業平との交渉は短期間で終わってしまい、以後再燃することもなかったようだが、清和天皇とはさほど仲の良い夫婦にはなれなかったらしい。寛平八(896)年、東光寺の僧善祐と密通したことで皇后位を剥奪されるという事件も起こしている。
 基経と高子は同腹で、母は藤原総継女乙春という。異腹の兄姉、国経や淑子とは毛色の違う、ある意味で過激なところはこの母譲りかとも思われる。しかし、同じ総継女沢子を母とする光孝天皇は人格者であったというから、この仮説はちょっと証明できそうにはない。もっと想像を逞しくすれば、長良自身も基経たちのような激しやすいところがあったのにもかかわらず、上手に隠していたのかもしれない。仁明天皇崩御のとき、堪えきれず泣いたという記事は、妙に胸に迫るものを持っている。

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