藤原冬嗣

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 藤原内麻呂の三男(二男とも)。母は飛鳥部奈止麻呂女とも、百済宿禰永継とも言われている。
 嵯峨天皇の東宮時代に春宮大進、春宮亮をつとめ、弘仁元年の薬子の変に際して蔵人所が設置されると頭に任ぜられた。大伴親王の立太子のときには春宮大夫に任ぜられるなど、嵯峨天皇の信任は厚く、天長二年、桓武朝以来闕官となっていた左大臣に任ぜられ、藤原北家隆盛の基礎を築いた。
 「弘仁格式」「内裏式」などを編纂、また漢詩集「文華秀麗集」撰進の際には総裁をつとめた。一門の子弟のために勧学院を設立、貧民のために施薬院を設立、また氏寺である興福寺に南円堂を建立した。
 私邸が閑院邸と称されたことから、閑院左大臣とも言われる。

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兄の真夏は平城天皇に、冬嗣は嵯峨天皇にという父内麻呂の策略?

 大同五(810)年三月、嵯峨天皇は尚侍の職掌を奪い、対立する平城天皇と尚侍藤原薬子の動きを封じるために蔵人所を設置し、藤原冬嗣と巨勢野足を任じた。
 薬子の変は、平城上皇方と嵯峨天皇方に分かれての争いだが、冬嗣の父内麻呂は自身の立場を明らかにせず、長男真夏と二男冬嗣の二人をそれぞれに付かせ、保身を計ったらしい。結局上皇方は敗れて真夏は左遷されるが、その後名目上とは言え参議になることができたのは、父の力によるものだろう。逆に冬嗣は翌年参議に補任され、以後急速に頭角を顕すこととなる。

春宮大夫・春宮亮・蔵人頭に冬嗣の近親者が多い 

 冬嗣の息子良房は嵯峨天皇の娘源潔姫を妻とした。二人の間の娘明子は、後に女御となることから見て、冬嗣は後宮政策にもぬかりがなかったことがわかる。しかし、天皇との関係は閨閥によるものだけではなく、天皇が皇太子たる若年から春宮大夫や春宮亮として天皇を補佐し、即位後は蔵人頭として天皇の側近となるといった、天皇に近い地位を意識していたらしい。冬嗣は自身はもとより、近親者も天皇のそばに置き、天皇を幾重にも取り囲んでいた。

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