菅原道真

ホーム 上へ

 父は菅原是善。母は伴氏。
 学者だった父の影響で大学に入り、同じく学者として立身を計る。44歳のとき、阿衡の紛議で橘広相を弁護したことから宇多天皇に見出され、宇多天皇の親政が始まると同時に重用された。
 だが、学者文人としては異例の出世を遂げて公卿からも学者たちからも反感を買い、孤立した立場におかれた。宇多天皇の退位後、力を得た藤原時平らにより太宰権帥に左遷、京に戻ることを許されないまま、59歳で亡くなった。
 死後、時平や皇太子の相次ぐ急死、内裏への落雷は道真が天神となって祟っていると恐れられた。

ここに着目!

友を持たない大学者

 道真を考えるとき、一般的な官人の秩序とは別に、学閥の存在を気に懸ける必要があるようである。道真が参議に昇進した寛平五(893)年当時、公卿の中には学者出身の人はいなかった。大学を出て出世するのがすでに難しくなっていたことを意味している。道真も宇多天皇に会わなければ、文章博士や式部大輔あたりを務め、詩集を残した一学者として生涯を終わったことだろう。道真の後半生を狂わせてしまったのは、やはり宇多天皇である。天皇の信頼が大きすぎたのが、左遷の直接の原因である。
 だが、間接的にではあるが、道真を陥れたのは学者たちの思惑である。昌泰四(901)年は革命が起こる年だとして、道真に辞職を勧告した三善清行の行動が、道真失脚の発端と言えるからである。清行は道真とは犬猿の仲であった。それは道真への羨望のせいばかりではなく、前々からの確執だった。
 大学で文章博士になるためには、対策(または方略試)という試験を受けなければならない。清行が受験したときの問答博士(合否判定の試験官)は道真であった。道真はこのとき不合格を出しており、清行は怨んだことだろう。また、清行の師、巨勢文雄が書いた清行の推薦状に対し、鼻で嘲笑うようなことを道真は言ったともいう。
 このようなことを挙げればきりがないが、要するに学者たちは公卿たちの出世競争とは異なる土俵で争っていたわけである。試験のやり方にも問題はあろうが、問答博士を怨むことは誰しもあったらしい。また、大学で文章道を学ぶ者は、東曹あるいは西曹のどちらかで学ぶこととなっていて、これも争いのもとになった。大学で教えを乞うた教官同士で反目し合えば、その弟子たちも学閥に分かれて互いを貶めようとするのである。
 では、道真を支持した人はいたのか。父の是善、舅で漢詩の師でもある島田忠臣、阿衡の紛議でかばった橘広相。いずれも道真が政界で孤立したころには没している。唯一の友人とも言える紀長谷雄は、しかし三善清行とも親しかったらしく、真の友人たり得たかどうか。
 左遷の理由とされる謀反の計画については、古来濡れ衣かどうかで意見が分かれている。が、これは後のことを考えてみれば答えは自明だと思われる。公卿の中に、道真に賛同してついてくる者がいたとは思えない。もし醍醐天皇を廃して婿の斉世親王を皇位に就けたとして、並み居る公卿たちが納得するとでもいうのだろうか。左大臣藤原時平をはじめ、すべての公卿を左遷し、自分の門下の学者などを抜擢するなどということが、可能だろうか。すでに退位した宇多天皇が、援護してくれるだろうか。
 道真左遷の報を聞いた宇多天皇は、醍醐天皇に会いに行ったが、紀長谷雄(藤原菅根とも)に邪魔されて会うことはできなかった。紀長谷雄だったとすれば、道真に親友と言える人はいたのだろうかと首を傾げたくなる。あるいは、道真に親切心から忠告する友がいれば、左遷されることはなかったのだろうか。だとすれば道真があまりに気の毒である。 

[ 上へ ]