源高明

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 醍醐天皇の第十皇子。醍醐第一源氏。母は更衣源周子。
 延喜二十(920)年12月、七歳で6人の兄妹たちの戸主として源姓降下。同母の兄妹は2親王4内親王一女あり、うち勤子内親王と雅子内親王が藤原師輔室となり、藤原氏との縁を深めている。さらに、雅子の生んだ娘が高明室となるなど、その絆は非常に深い。
 だが、左大臣兼左大将であった安和二(969)年3月26日、突然太宰権帥に落とされ配流された。同日出家し、法名を覚念という。「安和の変」と呼ばれる有名な政変であるが、これは教科書などでも藤原氏による他氏排斥の謀略であるとの説が有力であり、特に藤原師尹がその首謀者と見なされる。しかし、千年を経た今となっては、真相はすでに闇の中である。
 高明は3年を筑紫で過ごし、天禄三(972)年4月に京へ召還されるが、政界へ復帰することなく葛野に隠棲。天元五(982)年12月16日、69歳で没した。右京四条に壮麗な邸宅を有し、「西宮殿」と称された英傑の最期である。
 子女は多くあったが、安和の変当時、まだ成人していなかった子には罪は及ばず、三男俊賢は後に累進して大納言に至り、末娘明子は円融女御の東三条院藤原詮子に養育され、のち道長に請われてその室となった。
 著書に有職故実として重視された「西宮記」がある。(by えんじゅ)

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