父は平良持(良将とも)。母は県犬養春枝女と言われる。
桓武天皇の曾孫高望王の孫。北坂東の地(茨城県南部)に育ち、若いころ官途を求めて上京したが失敗。帰国後、伯父たちと対立して幾度か私闘に及んだ。広い領地と周辺の農民を所有し、すぐれた騎馬隊などの武力を蓄えていたことから、国司と郡司との紛争事件などへの介入を繰り返すうちに坂東八国の制圧を目指すようになる。
天慶三(940)年には、謀反が起きたとして中央政府は追捕使を任命し、逆賊とみなされた。将門は「新皇」と称して新たな国家建設に着手し始めていたが、藤原秀郷や平貞盛に討たれて生涯を終えた。
ここに着目!
| 将門の武力の源 |
将門が伯父国香や良兼らと私闘に至った理由は、「将門記」では女論とあるだけで、詳しいことはわからない。ただ、伯父の良兼とは舅と婿の関係であったと書かれており、後に将門から娘を取り返そうとすることから、おそらく良兼の娘は父の意志に反して将門と結婚していたらしい。良兼ら伯叔父たちは源護という人物の娘をそれぞれ娶っていたために、将門は伯父ばかりか源護の息子たちまで敵に回して戦っている。将門の父良持はそのころには亡くなっていたらしく、一門の中で将門が頼りにできるのは数人いる弟たちだけであったらしい。
そのような心許ない状況で、将門はよく戦っている。その軍事力がどこから供されたものか、あるいはもともと将門の手の内にあったものか、断定できない。
考えられるのは、妻の実家の勢力である。このころの結婚は婿入り婚であり、将門も妻の家とは結びつきがあったはずである。だが良兼女と結婚していたとして、良兼は敵対する人物である。良兼女のほかにも妻はいたかもしれないが、妻の縁に連なる舅や義理の兄弟というのは将門記でも特筆されない。従って、将門が婿入り先を当てにしていたとは思えない。
さらに言えば、伯父たちと争いを始めたころの将門はまだ若いようである。伯父たちの方は子どもが結婚するくらいの年令なので40代後半、将門は延喜二(902)出生とすれば30歳である。
そうした若者の持ちうる武力は、死んだ父の残した所領、あるいはその周辺に居住する土豪や有力農民たちである。将門記ではこれを伴類と呼んでいるが、初めはそうした主従に近い関係にある者を騎馬隊に仕立て、戦いにおよんだものと思われる。後に新皇と称したとき、将門は仲間を坂東諸国の国守に任命しているが、多治経明という者を上野国守にしている。経明は常羽御厩の別当で、中央政府の有する官牧の長官である。経明がどういう経緯で将門と共に戦うようになったのか明らかでないが、官牧の馬が利用できることは大きかっただろう。将門の配下は、必ずしも血縁で繋がっているわけではなく、どちらかと言えば任侠的な要素が入っているようで、それは将門個人の魅力というものもあったということかもしれない。
もう少し客観的に考えるならば、将門は崇拝に足る貴種だったことである。桓武天皇の末裔であってみれば、土着の農民には帝と同じように思えたであろう。その将門が京から徴税のためにくる国司を次々に襲い、国府を降伏させている。自分たちから搾取と略奪を行うのは国司(受領)らであって、郡司や百姓、土豪にとって、怨みの深い者と敵対する将門は、まさに神のような存在であったに違いない。
将門は結局討たれてしまったが、将門伝説なるものは全国に残っている。それは将門が、華やかな貴族社会を支える底辺の農民たちの希望を背負わされた、偶像だからなのかもしれない。 |