安倍晴明

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事跡: 
 延喜21(921)年、出生。
 天徳4(960)年、天文得業生として歴史に登場
 応和元(961)年、師賀茂保憲とともに霊剣鋳造
 康保4(967)年、陰陽師として政始の日時を勘申
 天禄3(972)年、天文博士となる
 貞元2(977)年、賀茂保憲、没
 天元元(978)年7月24日、出雲晴明宅に雷震、家破損(『日本紀略』)
 天元2(979)年、花山天皇の命令で那智山の天狗を封ずる(『禅林応制詩』)
 永観2(984)年7月28日、円融天皇譲位の日を「来月28日」と答申、
           7月29日、道光らと譲位・立太子の勘文等を
                  藤原実資のもとへ持参
 寛和元(985)年4月19日、藤原実資室のため安産「解除」を行う
           5月29日、花山天皇の錫紵の日を問われ、
                  明日寅の剋初めがよいと返答
           11月、大嘗会の吉志舞の奉行をする
 寛和2(986)年2月16日、太政官正庁に蛇がおり、占いをする
           2月27日、太政官正庁の母屋に鴿が入り、占う
           9月、安倍吉正(吉昌?)、天文博士に任ず
                        この年、蔵人所陰陽師となるか
 永延2(988)年7月4日、藤原実資の子のため「鬼気祭」を行う
 永延3(989)年1月6日、一条天皇病のため、占いを行う
           2月11日、皇太后詮子の病のため、泰山府君の祭を行う
 正暦4(993)年、一条天皇の御悩を祓うため「御禊」
         この年、一男吉平、任陰陽助
 長徳3(998)年、藤原道長の命により「防解火災祭」
 長保元(999)年7月16日、一条天皇の歯痛について占う
           11月7日、防解火災祭の日時を勘申
 長保2(1000)年1月28日、道長女彰子立后の日時を勘申
            2月16日、法興院に行幸の日時を来月14日と勘申
            一条天皇新造内裏遷御の日取りを占う
            10月11日、一条天皇が新造内裏に遷御の際、反閇を行う
            10月21日、内裏造営の叙位式典において、
                    叙位の位記を読み上げる
 長保3(1001)年6月20日、東宮居貞親王の病について不動像供養を提言
                   敦康親王の真菜始の日時を勘申
           閏12月17日、東三条院詮子の行成邸への移御を
                    中止すべきと占う
           閏12月23日、蔵人所にて、詮子の葬送の雑事について勘申
           この年までに従四位下
 長保4(1002)年7月27日、一条天皇の命により玄宮北極祭を行う
            8月21日、敦康親王の病に邪気ありと占う
            藤原行成のため「泰山府君祭」
 寛弘元(1004)年2月19日、道長の木幡三昧堂を建てる場所を定める
            2月26日、行成より庚辰の日の仏事について
                   問い合わせを受ける
            6月18日、道長、予定していた賀茂神社参詣を
                   晴明の占いで延期
            6月20日、道長、仏像を造る予定を晴明の占いで中止
            7月14日、降雨祈願のため五龍祭を行い降雨す
            9月25日、多武峰の墓が鳴くというので占う
            12月3日、土御門邸で大般若経と観音経を供養する                   法会が開催され、光栄らとともに祭を行う
           この年、二男吉昌、陰陽頭となる
 寛弘2(1005)年3月8日、中宮彰子のため、反閇を行う
            9月26日、没

 父は大膳大夫安倍益材(伝説では保名とも)。母は不明で、狐とも伝えられる。
 出生地その他は不明だが、讃岐国という説や、大阪阿倍野区の安倍晴明神社付近という説もある。
 若いころに賀茂忠行・保憲に陰陽道を学び、天文道の後継者となった。ト占の術に優れ、天文博士をはじめ主計権助、左京権大夫、穀倉院別当などを歴任。『今昔物語』や『古今著聞集』などの説話では超人的な力を持つ陰陽師として語られる。

ここに着目!

官僚としての陰陽師

 陰陽師とは何か。天文・暦数のことを司る役所であるのが陰陽寮であり、陰陽寮の中でト筮と土地の吉凶を見るのが陰陽師とされている。官位相当で言えば従七位上、さほど高い身分ではないが、国家に属する公務員である。晴明はどのような経緯で陰陽師になっていったのか。
 安倍晴明が史書に現れるのは天徳4(960)年、天文得業生(大学院生のようなもので、天文博士の候補者)として節刀の形状を勧申したという記事からである。40歳で得業生というのもとうが立っているように思えるが、晴明の家柄からすれば、それくらいで普通だったのかもしれない。恩師の賀茂保憲が天徳年間(957〜960)に天文博士を勤めているので、晴明はその後を引き継いで天文博士に任じられたもののようである。賀茂家は天文道とともに暦道も担当する家であったが、晴明が天文道を継いだので、保憲の息子の光栄は暦道だけを伝えられた。この一事でも、晴明が天文道に明るい人物だったことがうかがえる。ただし、光栄が殊更凡庸だったというわけではない。晴明より17歳年下の光栄は一条天皇朝では活躍し、朝廷行事の勘申などは幾度も行っている。晴明の才能が、よほど際だっていたということだろうか。
 しかし、その晴明の才能を証明するに足る史料はないようである。説話文学の中で語られる超人的な能力は、どこまで信憑性があるのか判じがたい。たとえば、花山天皇の頭痛の原因を言い当てて直してしまった話(『古事談』)、道長のもとに届いた箱の中に毒気があると言い当てたこと(『古今著聞集』)、など、どこかしら迷信じみたものが感じられてならない。
 晴明は、たしかに家柄を武器にして出世した男ではないだろう。だが説話のような神懸かった能力を発揮したわけでもないように思う。晴明も賀茂家の陰陽師たちも、時代の要請に応えることができたということなのではないか。政治が次第に儀式化して、年中行事を滞りなく行うことが貴族たちの使命になっていた。その儀式の日を決め、あるいはそのための暦(具注暦)を作るのが陰陽道を司る者の仕事である。また天災のような変事に関しては、朝廷は原因を突き止め処置策を講じねばならない。何もしないでは済まされないからである。そうしたとき、占いをよくする者が勘申してくれたなら、政治家たちにとってこれほど楽なことはないだろう。
 そして、時には特定の政治家のために占い、進言することもあったかもしれない。学者で後に公卿まで累進した三善清行は、独学で陰陽道などを学んだらしい。菅原道真失脚の端緒を作ったのは清行の朝廷への進言だが、彼は易学の知識などを巧みな言い回しで利用して、道真を左遷する口実を作っている。それは当時の政府全体の、道真追放のために必要なものであった。これと同じような役割が、陰陽師に課せられていたとしてもおかしくはない。平安時代の人々は、人智で計り知れないものを恐れてはいただろうが、反面それを迷信や占いという形で自分たちに都合よく利用もしていたのである。陰陽道はそのための理論武装として用いられ、陰陽師は政治家たちの走狗という面もあったであろう。この時代の武士が上流貴族に対し武力で以て奉仕していたように、陰陽師は陰陽道の持つ学問的権威と呪術性で以て朝廷に(と言うより権力者に)仕えていたと見るのが至当なようである。

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