源親範

ホーム 上へ 懐円

事跡: 

長保2(1000)年ごろ? 出生
万寿2(1025)年ごろ? 文章得業生となる。のち大内記に任ぜられる
長暦2(1038)年9月13日 権大納言家歌合において、「露」の題で出詠(「霧」「鹿」の二題は能因が代詠するも、採歌されず)
長暦2(1038)年9月13日以降? 能因のもとを訪ね、能因から歌を贈られる
寛徳2(1045)年7月30日

 能因の親友、源道済の男子。一説に孫。後拾遺集のみに1首入集。

   親範の父

 親範は公的な記録にほとんど見あたらず、また歌の世界においても、 『後拾遺和歌集』の一首(長暦2年9月13日の歌合で詠んだ露の歌)が知られるだけである。
 能因との関わりから見ると、長暦2(1038)年9月13日の歌合以後、親範は能因の家を訪ねて物語をしたらしい。そこで、能因から「君みれば 朝倉山に かくれにし 人に我こそ あふ心地すれ」という歌を贈られた。20年前に亡くなった道済を思い出さずにいられないほど、親範は道済の面影を残していたことになる。この歌からすれば、源道済の没後、親範と能因は頻繁に会っているわけではないが、何らかの形で音信はあったと考えられる。現に上の歌合では能因に代詠を頼んでいるほどである。
 さて、この親範という人は能因自身と同じく、父親が誰かという点で異説がある。道済の子と伝えられる一方で、尊卑分脈では道済−懐円(懐国とも)−親範となっており、父は懐円という人物であり、親範は道済の孫になるとも言われているからである。
 以下、二人の父親候補の生年を探ってみる。
 懐円は正暦4(993)年春、花山院熊野参詣に供奉して詠歌したという記事から、975年ごろまでには出生していたということになるだろうか。また、『後拾遺和歌集』の歌の詞書からは、赤染衛門(957?〜1042?)、僧懐寿(970〜1026)、大中臣輔親(954〜1038)などと親しかったことが窺えることから、懐円の生年は970年ごろと推定してよいのではないか。
 源道済のほうは、家集の冒頭近くに、三河任官のころ(984年ごろ)妻を亡くした三河入道の記述があり、このころ詠まれた歌を道済は後で知って感慨をもよおしたように書いている。また、父親の方国が能登守になったこと(996年)が38首目に語られる。道済の祖父信明の生年(910年)などと併せると、道済の生年は950〜970年、懐円の年齢を考慮すると950年とすべきか。
 したがって、年齢的には道済も懐円も父親になりうるわけである。が、道済を父親だったと仮定すると、出家した懐円の養子にするということは考えにくく、自身の手で養育したと思われる。だとすると、懐円の子という説が生まれる素地が少なくなるのではなかろうか。
 一方、懐円の子であれば、これは出家しているのであるから、子の親範は当然道済か誰かのもとへ預けられ、場合によっては養子になっているだろう。これが実子と伝わることもあろうから、現在どちらが実父か判明しない状況と符合する。
 若き父は出家し、道済のもとか、あるいは母である小槻忠臣女に育てられた親範。母の姉のもとへは、能因の兄、為トが通ってきていた。その縁で、能因と親範は出会い、後に能因と道済が友人となるのではなかろうか。かなり年齢差のあった能因と道済の邂逅には、こんな逸話があったと考えると楽しい。
 
源親範の和歌
『後拾遺和歌集』第四、秋上

     土御門右大臣家歌合によめる       源 親範
 
309 秋の野は をるべき花も なかりけり こぼれてきえん 露のをしさに