事跡:
| 正暦4(993)年春
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花山院熊野参詣に供奉して詠歌
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生没年未詳だが、交流のあった輔親が954年生まれ、懐寿が970年生まれ、赤染衛門が957年ごろの生まれであり、また父道済の生没年や活躍した年代から推定すると、970年ごろの生まれか。叡山法師。
その生涯は不明な点が多く、残された勅撰集の歌や逸話から推定するほかない。『範永集』には度々その名が見えることから、範永と親しく交流していたことが知られる。そのほか、赤染衛門・歌僧良暹・懐寿などとの交流があった。後拾遺集のみに3首入集。
『袋草紙』
南院は輔親卿の家なり。月を見んが為に、寝殿の南庇を差さずと云々。懐円が「池水は天の川にやかよふらん」とよむは、この所において詠むなり。月の明き夜、歩行にて行き向へるに、夜更けて人も寝ぬらんと思ふに、寝殿の南面に輔親一人月を見て居て、時に相互に興に乗じてこの歌を詠み、暁光に帰ると云々。
『袋草紙』
先達も誤ることあり。良暹は「郭公ながなく」と云ふ事を「長鳴く」といふ心と存じたるなり。俊綱朝臣の許において五月五日に「郭公をよめる」歌に云はく、
やどちかくしばし汝が鳴け時鳥けふのあやめのねにもたぐへん
懐円嘲弄して云はく、「「ほと」と鳴きはじめて、「ぎす」とながむるにや」と云々。
また良暹、ある所において語りて云はく、「一日江州より上洛の間、会坂において時雨に逢ひ、石門に立ち入りてかしこく濡れず」と云々。これ優艶の儀か。而して懐円問ひて云はく、「関の石門には何様に立ち入らるるや、門侍るか」と云々。懐円咲ひて、「それは石の廉に侍り。知り給はざるか。不便なり」と云々。良暹閉口す。懐円に度々難を蒙る者なり。
『袋草紙』
「落葉路を隠す」の題を、清成法印の詠歌に云はく、
もみぢちる秋の山べはしらがしのしたばかりこそみちはみえけれ
懐円の君道済の子云はく、「題の心なく、路已に露顕す」と云々。
良暹の歌に云はく、
板間よりもりくる月のかげみれば宿はあらしてすむべかりけり
同人云はく、「歌の五文字と童女の顔とは、すべらかなるべしと云々。「木馬」の字尤も別様なり。貫之が「あれたる宿の板間より」とよめるは、歌の中間にてなにとも聞こえず。これはおびただし」と云々。
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