『栄花物語』岩蔭巻
はかなう御忌も過ぎて、御法事一条院にてせさせ給ふ。
その程の御有様、さらなる事なれば、書きつづけず。
宮々の御ありさまいみじうあはれなり。
御忌はてて、宮には枇杷殿へ渡らせ給ふ折、藤式部
7 ありし世は 夢に見なして 涙さへ とまらぬ宿ぞ 悲しかりける
『栄花物語』日蔭のかづら巻
はかなくて、司召のほどにもなりぬれば、世には”司召”とののしるにも、
中宮、世の中をおぼし出づる御気色なれば
8 雲の上を 雲のよそにて 思ひやる 月は変らず 天の下にて
【通釈】
一条天皇の御忌もはかなく過ぎて、法事を一条院にてなさる。
そのときの有様はますます悲しいもので、書き続けられない。皇子
皇子たちのご様子もたいそうしみじみと哀れをさそうのであった。
法事が終わり、中宮が枇杷殿へ退出なさった日、詠んだ歌
7 帝がおいでになった御世を夢と思っていると、涙までもがとどめることのできない、
思い出深いこの宮中に留まることを許されず出ていかなければならないのが、
悲しいことです。
はかなく月日が過ぎ去って、司召のころにもなったので、世の中はそのことで
立ち騒いでいるが、それを横目にして中宮は一条天皇とお過ごしになった日々を
思い出されるご様子だったので
8 雲の上である宮中のできごとを、雲の外から見ては思いを馳せることです。
日の光であった一条帝はお亡くなり遊ばしましたが、月である中宮さまは、
今も変わらす天の下におられますというのに。
【語釈】
●御忌……一条天皇の崩御(寛弘8年6月22日)から七七日を指す。
●宮々……一条天皇の皇子、敦成(4歳)、敦良(3歳)。定子の生んだ敦康は15歳。
●宮……中宮彰子。
●枇杷殿へ出で給うける日……寛弘8年10月16日、中宮彰子は一条院御所の東別納を引き払い、枇杷殿(藤原基経の邸、道長が伝領)へ移御した。
●ありし世……一条帝在世の時代。
●とまらぬ宿……「涙が止まらぬ」と「泊まらぬ宿」を懸ける。「宿」は、一条天皇在世中、ともに過ごした一条院御所。
●はかなくて……一条天皇崩御の後、月日はむなしく過ぎて。
●司召のほど……司召の除目のころ。在京の諸官を任命する公事。秋に行われる。ここは寛弘9年正月下旬の歌。
●雲の上を雲のよそにて思ひやる……宮中のできごとを、宮中の外(枇杷殿)にいて思う。
●月は変わらず……月は中宮をたとえる。月(中宮)は昔のまま、天の下で御代を照らしていらっしゃる。
・日の光(一条帝)はお亡くなりになったが、月は昔のまま。 『基礎』『全評』
【参考】
『続古今集』哀傷、1409
「一条院の御事の後、上東門院、枇杷殿へ出で給うける日、詠み侍りける
ありし世を 夢に見なして 涙さへ とまらぬ宿ぞ 悲しかりける」 |