かきほあれ

ホーム 上へ

    六月ばかり、なでしこの花を見て

96 垣ほあれ さびしさまさる とこ夏に 露おきそはむ 秋までは見じ

    「物や思ふ」と、人のとひ給へる返り事に。なが月つごもり。

97 花すすき 葉分けの露や なににかく 枯れ行く野べに 消えとまるらむ

    わづらふことあるころなりけり。

    「かひ沼の池といふ所なんある」と、人の、あやしき歌語りするを、
    聞きて、「こころみに詠まむ」といふ

98 世にふるに なぞかひ沼の いけらじと 思ひぞしづむ そこは知らねど

    又、ここちよげに言ひなさむとて

99 心ゆく 水のけしきは 今日ぞみる こや世にへつる かひ沼の池

【通釈】
 
    六月のころ、撫子の花を見て、

  あの人が来てくれないので、垣が荒れ果て、寂しさがつのる独り寝の床と娘。
  その名を持つ常夏に露が置いて枯れてしまうような秋、
  床が涙で濡れて飽きられる秋、そんなときは見たくないものです。

    「物思いをしていらっしゃるのですか」と人が問いなさった返事に、九月末日のことだった。

  穂を出したすすきの葉を分けて下葉に宿る露は、ものみな枯れゆく秋の野辺に、
  何のためにこんな風に消えたり残ったりしているのでしょうか。
  わたしも夫が死んでわびしいこの世に、どうして命長らえて留まっているのでしょうか。  
  恋とはおよそ縁遠いわたしです。

    それは患っているころのことでした。

    「『かひ沼の池』という所があるそうよ」と人が不思議な歌語りをするのを聞いて、
    「試みに歌を詠んでみましょう」というので、詠んだ歌

  この世に生きているのに、かひ沼の話のように、どうして生きていくまいなどと
  思いは心の底に沈んでいくのでしょう、池の水底、そこがどんなところかは知らないけれど。

    また、今度は努めて晴れやかに詠んでみようというので、

  気も晴れるような「かひ沼」の水辺の風景は見たことはなかったけれど、
  今日初めて見たことですよ。これこそが、あの有名な昆陽(こや)の池と同様、
  言い伝えられてきたかひ沼だったのかと。

【語釈】
垣ほあれ……人が訪れないので手入れも行き届かない、荒廃した垣根の様子。
・夫の夜離れを嘆く心境   『全評』『論考』『新書』『復元』『国文』『大系』『経緯』
・夫が亡くなって、幼子を抱えた式部の心境 『集成』『基礎』『叢書』『評釈』

とこなつ……撫子の異名。床に通じることから、男女の仲をさす。『源氏物語』では幼女にたとえる詠歌が多く、娘賢子の面影を含むとみる説もある。
・「床」と懸けて、夜離れの床 『国文』『大系』『新書』
・娘賢子の面影を含む 『集成』『叢書』『大系』

●露おきそはむ……秋の露が置き添い、撫子が枯れてしまうような。独り寝の床が涙で濡れてしまうような。
●秋までは見じ……秋に「飽き」を懸ける。
●「物や思ふ」と人のとひ給へる……「人」は出仕後とみて、同僚女房を指すとする説がある。
・宣孝の夜離れのころ 『人物』『国文』  ・寡居中 『叢書』 
・出仕後 『論考』『全評』『評釈』
花すすき葉分けの露……穂の出たすすきの葉の間に落ちて、下葉に宿る露。
●なににかく……何のためにこのように。
●消えとまるらむ……「消えとまる」の訳は二説あり。
・「消えずに残っている」 『集成』『評釈』『全評』『大系』
・「消え、または留まる」 『論考』『叢書』
●わづらふことあるころなりけり……この一文、97番歌の左注とみるか、98番歌の詞書とみるかで説が分かれる。
・左注 『国文』 ・詞書 『評釈』     
・両方 『集成』『新書』『大系』
かひ沼……漢字を当てると、貝沼、甲斐沼、交沼など。場所については諸説あるが確定できない。
・陸奥国新田郡に貝沼郷があり、そこの池か 『集成』
・陸前登米郡貝沼郷にある池 『評釈』

あやしき……鄙びた、珍しい、不思議な。
歌がたり……歌にまつわる逸話。
世にふるに……世に経るに。この世に生きていながら。
●なぞかひ沼のいけらじと……「かひ」は「貝」に「甲斐」を懸ける。「いけ」は「池」に「生け」を懸ける。生きる甲斐のない。「いけらじ」と思うのが、歌語りの登場人物の心境と、式部自身の心境のどちらを表すかで解釈が異なる。
・式部が「生きながらえて何の甲斐があろう」と思う 『評釈』『大系』『叢書』
・登場人物が「生きながらえて何の甲斐があろう」と思って 『全評』

そこはしらねど……「底」に「其処」「心の底」などを懸けるとするが、反論もある。
・「其処」は懸けていない 『論考』
・「底」と「其処」を懸ける 『新書』『全評』『集成』『国文』
●言ひなさむ……強いて、とりつくろって言う。
●心ゆく……晴れ晴れするような。
●水のけしき……「水」に「見ず」を懸ける。

●こや世に経つる……代名詞「これ」+間投助詞「や」で「こや」。摂津の歌枕で「昆陽」の池と懸ける。これこそ、永く世間に伝えられてきた。

【参考】
『夫木和歌抄』雑五、池、755
心ゆく 水のけしきは けふぞ見る こや世にかへる かひ沼の池