かげみても

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    やうやう明けゆくほどに、渡殿に来て、局の下より出づる水を、高欄をおさへて、
    しばし見ゐれたれば、空の気色、春秋の霞にも霧にも劣らぬころほひなり。
    小少将の隅の格子を、うちたたきたれば、放ちておし下し給へり。
    もろともに下りゐて、ながめゐたり。

69 影見ても 憂きわが涙 落ち添ひて かごとがましき 滝の音かな

    返し

70 ひとりゐて 涙ぐみける 水の面に うき添はるらむ 影やいづれぞ 
 
    明かうなれば、入りぬ。長き根を包みて

71 なべて世の うきになかるる あやめ草 今日までかかる ねはいかがみる

    返し

72 何ごとと あやめは分かで けふもなほ たもとにあまる ねこそ絶えせね

【通釈】
 
    次第に夜が明けていくうちに、渡殿を横切って局の下から出てくる遣水を、
    高欄に手を掛けてしばらく見入っていると、空の雰囲気が春秋の霞や霧にも
    劣らぬ美しい時分である。小少将の君のいる隅の格子をちょっと叩くと、
    二枚格子の上を外し、下は押しながらお下ろしになった。
    一緒に簀子に降りて座り、空を眺めていた。

  遣水に映る自分の姿を見ても、憂いの多いわが身のことを思うと涙が遣水の上に落ちて、
  まるでわたしのせいだと恨み言でも言っているかのような音が聞こえてくる。

    返事

  あなたが独りで座り、涙ぐみながら見つめていた水面、その水面に浮き、
  憂きを添えるという影は、どなたの影でしょう。憂きわたしの影ですよ。

    辺りが明るくなったので局に引き取った。小少将の君から、
    あやめの長い根を包んだのを贈ってきて、

  沼地に流れたままのあやめ草、その根が今日まで柱に掛けられたままでいるのをどう御覧に
  なりますか。おしなべて、世の中の憂さに涙し、今日まで泣き続けているわたしをどう思われますか。

    返事

  わたしも同じですよ。なぜだかわけもわからず、今日もやはり袂に覆いきれないほど長いあやめの
  根のように、袂で押さえきれないわたしの泣き声も絶えることはないのです。

【語釈】
●やうやう明けゆく……土御門邸の法華三十講が行われている最中の五月六日の明け方。
●気色……視覚的・聴覚的に感じられる自然界の様子。
●ころほひ……時節・ころ。
●小少将……式部と最も親しかった同僚の女房。左大臣源雅信男、左少弁時通の女。時通は倫子の兄弟で、小少将は中宮彰子や大納言の君とは従姉妹になる。『尊卑分脈』では源扶義女。
●影……遣水の水面に映る自分の姿。
●かごとがましき……恨みがましい。何が恨みがましいか、諸説ある。
・式部の涙のせいだと滝が恨み言を言っている。 『集成』
・遣水が涙で変質し憂き嘆きの恨みがましい音をたてる。 『論考』
●滝……岩で落差を作り、遣水の流れを落とした所。
●涙ぐみける……「涙ぐみ」の「み」は「見」と懸けている。
●うき添はるらん影……水面に浮き添い、憂いを添えるという影。
●いづれぞ……二者択一だと「どちらの影でしょう」。不定の疑問だと「いったい誰の影でしょう」。
・二者択一 『全評』 ・不定の疑問 『論考』『評釈』『国文』
●なべて世の〜……71番歌は日記歌によれば小少将の君の作だが、式部ととる説が有力。
●うき……「憂き」と「埿(うき、水はけの悪い沼地)」の掛詞。
●今日までかかる根……「かかる」は「掛かる」と「斯かる」の掛詞。「ね」は「根」と「(泣く)音」。今日まで柱に掛かっているあやめの根に、今日までこのように泣く音、を懸ける。
●あやめは分かで……「菖蒲」と「文目」を懸ける。文目は織物の模様、色目から、物事の道理、事情、区別の意にも用いた。訳は諸説ある。
・式部の「憂きに泣かるる」事情がわからないで。  『評釈』
・なぜ憂きに泣くのか、そのわけを見極められぬままに。 『論考』『国文』『大系』『集成』
●たもとにあまるね……袂で押さえることのできない「涙(物理的に溢れる)」「泣き声(音が漏れる)」の二通りの訳がある。
・袂で覆いきれないほど、あふれ出る涙。 『全評』『集成』
・押さえられない泣き声 『論考』『国文』『大系』

【参考】
『続後撰集』雑上、1009
「東北院の渡殿の遣水にかげを見て、よみ侍りける
影見ても うき我涙 落ちそひて かごとがましき 滝の音かな」
『秋風和歌集』雑中、1170
「題しらず
かげみれば うきわがなみだ おちそひて かごとがましき 滝のをかな」
『新古今集』夏、223
「局ならびに、住みはべりける頃、五月六日、もろともにながめ明かして、あしたに、
長き根をつつみて、紫式部につかはしける   上東門院小少将
なべて世の うきに流るる 菖蒲草 けふまでかかる 根はいかがみる」
『新古今集』夏、224
「返し 紫式部
何事と あやめはわかで 今日もなほ たもとにあまる ねこそ絶えせね」