うきことを

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    弥生ばかりに、宮の弁のおもと、「いつかまゐり給ふ」など、書きて

61 憂きことを 思ひ乱れて 青柳の いとひさしくも なりにけるかな

    返し

62 つれづれと ながめふる日は 青柳の いとど憂き世に 乱れてぞふる
 
    「かばかり、思ひくしぬべき身を、いといたうも、上ずめくかな」
    と、人のいひけるを聞きて

63 わりなしや 人こそ人と いはざらめ みづから身をや 思ひすつべき

【通釈】

    3月ごろ、宮の弁のおもとが、「いつ参内なさるのですか」などと書いて、

  宮中であったいやなことについて、いろいろと思い悩んで里居なさって、
  もうずいぶん時が経ってしまったことですよ(そろそろ出仕なさいませんか)。

    その返事

 しとしとと長雨の降る日は、いっそううとましくなる世の中のことを考えては、
  ますます思い乱れているうちに、時が過ぎていくことです。

    これほどにも、思いくずおれそうな我が身だというのに、「ずいぶんと上揩ヤって
    いることだわね」と人が言っているのを聞いて、

  仕方のないことだ。人は自分のことを人並みとは言わないだろうが、
  みずからわが身のことを見捨ててしまえるものだろうか、できはしない。  


【語釈】
●宮の弁のおもと……『紫式部日記』で「宮の」があるのは「宮の弁」のみ。中宮付きであることを強調する意味があるか。また、式部は自分より上揩フ女房を「君」と呼ぶのに比べて、同格の女房を「おもと」と呼んでいる。この宮の弁のおもとも、中揩たりなのだろう。左大弁源扶義の妻、掌侍藤原義子か。
●憂きこと……『散華(杉本苑子)』『小説紫式部(三枝和子)』『紫式部物語(ライザー・ダルビー)』などは、創作ではあるが、式部が初出仕後いくばくもなく自邸へ戻ってしまった原因を、いずれも同僚女房による式部への冷遇というよりは、道長が新参女房に対して挨拶(儀礼)として行う情交に憤りを感じたからだとしている。諸注釈書には、もっと穏やかな原因しか挙げられていない。
・宮中の雰囲気になじめなかった 『全評』 
・宮中であった事件などではなく、式部の「身の憂さ」 『論考』
・恋愛で不都合なことがあった(ことを宮の弁のおもとも知っている) 『人物』『評釈』
・具体的には不明 『新書』
青柳の……「糸」に掛かる枕詞。
●いとど……「憂き」「乱れてぞふる」の両方を修飾すると考えられる。
●つれづれと……副詞。ある状態が単調に続いていること。
●ながめふる……「眺め経る」「長雨降る」を懸ける。長雨が降り続き、ぼんやりとそれを見て日を過ごすこと。
●かばかり……副詞「かく」+助詞「ばかり」。
●かばかり思ひくしぬべき身を……この一節を「」に入れて、同僚女房の言葉とする説と、入れないで式部の心情とする説と、二通りある。前者は「かばかり」の指す内容が不明。後者は家集の57・62番歌などを指し、こちらが適当か。
・これほどにも思いくずおれそうな私なのに。 「」に入れない。 『論考』『叢書』『国文』
・卑下し、遠慮すべき身分だというのに。   「」に入れる。  『全評』『新書』『人物』『基礎』
●上ずめく……上衆めく。お高くとまっている。
●わりなしや……仕方のないことだ。無理なことだ、などと訳するものもある。
・無理なこと、理屈のとおらないことだ。 『基礎』『叢書』『評釈』 ・仕方ない、やむをえない。 『論考』『大系』
●人こそ人と言はざらめ……他人はわたしを人数にも入らぬように言うようだが。
●思ひ捨つべき……見放してしまえるものだろうか。