世を常なしなど思ふ人の、をさなき人の悩みけるに、
から竹をいふ物瓶にさしたる、女ばらの祈りけるを見て
54 若竹の 生ひゆく末を 祈るかな この世を憂しと いとふものから
【通釈】
この世は無常だと思っている人(自分自身)が、幼い子(我が子)の病に苦しんでいるかたわらで、
から竹というものを瓶に挿して、侍女たちの本復祈願をしているのを見て
若竹のように健やかな娘の成長する未来を祈願することだ。自分はこの世を憂きものだと、
厭うているというのに。
【語釈】
●世を常なしなど思ふ人……世は常住不変でない、無常だと思っている人、式部自身。
●女ばら……「ばら」は複数を表す接尾語。女たち、女ども。高貴な人ではなく、侍女や庶民、女性一般を指すのに用いた。
●から竹……カンチクともいい、漢竹のこと。長寿を祈るのに使われた。
●この世を憂しと厭ふものから……世の中は憂きものと厭うているが、それなのに。
【考論】
<逆接の「ものから」>
54番歌は、幼い娘の賢子が病気のとき、その身を案じ、長寿を祈ったものである。紫式部には珍しい、母としての娘への愛情が表れた歌であるが、それは上の句だけのことで、下の句は逆接の「ものから」で繋がれ、「この世を憂し」と思う心もまた、厳然としてあると言っている。一般的な母性愛というものと、式部独特のこの世を厭う気持ちとは、背反するものだといことだろう。
式部の内面をそのどちらが大きく占めていたか。これは言うまでもなく後者である。子どもの存在は、まったくいないことに比べれば慰めにもなったろうし、