みしひとの

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    世のはかなきことをなげくころ、陸奥に、名あるところどころ書いたる絵を見て、塩釜

48 見し人の 煙(けぶり)となりし 夕より 名ぞむつましき しほがまの浦

【通釈】

    世の中がはかないことを嘆いていたころ、陸奥の名だたる場所を
    幾つも描いたものを見て、塩釜

  慣れ親しんだ夫が荼毘に付されて煙となった夕べから、煙が立ち上っている
  製塩の釜があるという由来を持つ名前が懐かしいと思えてしまう、塩釜の浦であることだ。

【語釈】
●陸奥……「道の奥」の約。東海道・東山道の奥の道で、陸前・陸中・陸奥・磐城・岩代にまたがる地域。
●しほがま……宮城県塩竃市。陸奥国松島湾内の塩釜。塩の生産地として有名な歌枕。

【参考】
『新古今集』巻八、哀傷、820
「世のはかなきを嘆くころ、みちの国に、名ある所々書きたる絵を見侍りて
見し人の 煙となりし 夕より 名ぞむつましき 塩がまの浦」

【考論】
<塩釜の浦>
 48番歌は、同じ物語絵を見ながらと言っても、44〜47番歌と同時に詠まれたものではないかもしれない。が、式部は物語を読むのと同様、絵を見るのが好きだったのではないだろうか。知人、友人から新しい絵を入手しては、繰り返し眺めたことだろう。この歌の「見し人」は明らかに宣孝であるから、夫の死後、手に入れた陸奥の名所絵を眺めていた式部は、たまたま塩釜の浦が描かれているのに気付いて、この歌を詠んだ、ということになろうか。
 ところで「名ぞむつましき塩釜の浦」の「名」は「塩釜の浦」だろうが、なぜこの名前がなつかしいのか、その理由が歌の初句から第三句までに述べられている。宣孝が煙となった、つまり火葬によって夫との永遠の別れを惜しんだ夕べから、「塩釜の浦」の名はなつかしい、というのである。
 では、「塩釜の浦」が宣孝の煙とどう関連づけられるのか。答えは『源氏物語』と家集の29番歌にある。

@見し人の煙を雲と眺むれば夕の空のむつましきかな 「夕顔」
Aのぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲ゐのあはれなるかな 「葵」
B鳥辺山燃えし煙もまがふやと海人の塩やく浦見にぞ行く  「須磨」
C煙のいと近く時々立ち来るを、「これや海人の塩焼くならむ」と思しわたるは、おはします背後の山に、柴といふものふすぶるなりけり。  「須磨」
D塩焼く煙かすかにたなびきて、とり集めたる所のさまなり。 「明石」
Eこのたびは立ちわかるとも藻塩やくけぶりは同じかたになびかむ 「明石」

 諸注釈書によく挙げてあるのが@の歌で、夕顔の死を悼むものであるが、この歌で使われる連想は亡くなった人→火葬の煙→煙が上った先にある雲→夕べの空、であり、だから夕べの空を眺めれば、亡くなった人を思い出してしまう、という。したがって、連想のモチーフに雲と空がなければならず、式部の48番歌にはこの二つがないので厳密には同じ連想だとは言えない。@と似ているのは、むしろAのような歌だろう。
 @の歌になく、48番歌にはあって重要なモチーフは、塩や海に関わるものである。
 式部の見た塩釜の浦の絵に具体的に何が描かれていたかは定かではない。が、おそらくそこには海と砂浜、そして海辺で塩を焼く海人の姿があっただろう。塩を焼くには塩釜がいる。海人のそばには塩釜も描かれていただろう。そして、塩釜の上には煙が立ち上っている。製塩で有名な場所、しかも製塩に使われる塩釜の名は、当然製塩の過程でできる煙と不可分に結びつく。そして、その煙は式部の中では人を火葬にしたときの煙を思い出させるものに他ならない。
 Cのように、光源氏は須磨の居所近くに住む庶民が柴を焼いているのを、海人が塩を焼いているものと勘違いしている。当時の貴族は実際に製塩の煙を見たことなどないに違いない。式部も例外ではなく、火葬の煙のほうは、式部も姉や伯父、伯母など近親者の死に立ち会っていたはずだから見知っていたろうが、製塩の煙は見たことはないのではないか。だから、既存の和歌の歌枕に詠まれた情景から、想像するだけである。名所の「塩釜の浦」→製塩に使用する塩釜→塩焼く海人→製塩の煙→宣孝の火葬の煙と、式部は連想する。あるいは家集の29番歌の存在を入れるとすれば、さらに宣孝の火葬の煙→製塩の煙→塩焼く海人→29番歌→宣孝と海に関する一連の歌を交わした時のことが思い起こされる、という経路をたどり、これらの連想が視覚に訴える形で現れたとき、式部には宣孝との思い出を再現する、なつかしい風景と映る。
 『論考』には、塩釜は決してなつかしいもののイメージを持つ言葉ではなく、「うら(浦)」さびしいもの、という意味に使うのが古今集以来の伝統だった、という。たしかにそれは正しい。が、この歌で言いたいのは、その伝統を式部の体験が覆してしまったことではないか。式部も宣孝の死までは一般的な塩釜のイメージを抱いていたが、宣孝の死を境に、塩釜の名がなつかしいものに変わってしまった、ということだろう。式部も、塩を焼く海人の光景が「むつましい」ものでないことは重々承知している。だからこそ、B〜Eのように、流謫の身である源氏を取り巻く風景は、海辺の荒涼とした様子や海人の塩を焼くわびしげな風景である。ただ、式部の個人的な体験がそこに介在したことで、連想のルートは変わってしまった、それだけである。