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年かへりて、「唐人見に行かむ」といひける人の、 湖の上で友を呼ぶ千鳥さん、どうせなら、いろんな湊で声絶えしないように、 向こう(宣孝)から、「あなたを想う心で身を焼いていることです」と言ってきたので、 文の上に、朱というものをつぶつぶと注ぎかけて、「これはわたしの 紅の涙はいっそううとましいことだ、紅が褪せやすい色であるように、
【考論】
上の表から、近江守と推定されるのは平惟仲、源則忠、橘忠望、藤原公任、源泰清である。 藤原公任は康保3(966)年生まれで正暦4年時点で28歳。適齢期の娘がいたと考えるのは苦しい。仮にいたとしても、10代であろうから、そんな娘に50歳近い宣孝が求婚するのは、紫式部との結婚以上に不釣り合いである。 源泰清は、式部が宣孝と結婚して以後の補任であるので、29番歌で近江守と呼ばれることはまずあるまい。 平惟仲は近江権介、近江介、近江権守と、長期にわたって近江に関わっていたので可能性は高い。『全評』はこれを重視して、平惟仲であろうとする。ただ、気になるのは、惟仲が権介であったときも、則忠が介になったときも「近江守」と呼ばれていることである。『全評』は則忠を退ける理由に、近江介を近江守と呼ぶことはないというのだが、明らかに『小右記』は介を守と言っている。則忠もまた、近江守と称する資格がある。 それに、『全評』は惟仲が近江の国政を取り仕切っていただろうとするが、近江権介時代から、惟仲は左右中弁、右大弁、蔵人頭と、いずれも激務を担当して在京の身である。近江の国政を顧みる暇があったとは思えない。特に権守は遙任であるというのは常識である。『本朝世紀』が近江守惟仲と呼ばず、京官を冠しているのもそのせいだろう。また、『小右記』に見える惟仲の名も、「左中弁惟仲近江守」などと記されているのであって、名前の下に「近江守」が付けられていても、「近江守惟仲」ではない。惟仲はふだんから、京官の肩書でもって呼ばれていたと考えるべきだろう。式部だけが、惟仲を近江守と呼ぶのはおかしい。 次に、橘忠望だが、この人を守とすると、公任の補任後も守であるのと重なってしまう。また、惟仲が近江権守になったのとも重なってしまう。よって、忠望の場合も、実は近江介なのを、「近江守」と呼んでいるのではないかと考えられる。そうすると、忠望は惟仲が近江介を辞退した正暦3年から、源則忠が任ぜられる長徳元年まで近江介の地位にあったと思われる。長徳元年を境に、前任となる忠望、後任の則忠が式部の言う「近江守」の候補になるわけである。 だが、この二人のいずれかとなると、決め手がない。二人とも、年齢的には問題がない。則忠は天暦3(949)年生まれ。忠望は不明だが、生没年の判明する親族との関係から、おそらく為時より数歳から10歳ほど年上。式部と同じくらいの娘がいる可能性はある。次いで宣孝との血縁関係を見ても、二人とも格別近しいというわけではなさそうである。 強いて言うならば、則忠は為時と同じように『本朝麗藻』に名が残る詩人であり、宣孝は式部に求婚したのと同じ理由、つまり詩人の娘ならば教養ある女性ではないかという期待から、則忠の娘に求婚していたのかもしれない。 また、則忠の息子の源道成は、式部とほぼ同年齢で、蔵人・右衛門佐を勤めた経歴を持っている。式部も、父の為時が蔵人であったとき、宣孝と同僚として顔を合わせる機会が多かったため縁談も起こったのだろう。とすると、宣孝が同じ衛門府に勤める道成の姉妹と(つまり「近江守のむすめ」)結婚しようと考えても、不思議ではないのである。 <式部の歌絵> 当時の人々がどの程度絵心があったか、は『源氏物語』から推測できる。それによると、光源氏は須磨や明石で手すさびに描いた絵が後に絵合の巻で名人と番えられるほどであるし、秋好中宮も冷泉帝の前で、みずから絵を描いてみせている。上手下手はあるにせよ、平安貴族は文字を認めるように、ごく気軽に絵を描いていたらしい。『源氏物語』の登場人物たちに絵を描かせているところからみると、式部自身もよく絵を描いていたのだろう。 ところで、この歌絵は宣孝、式部のどちらが描いたとするのが正しいか。詞書では、前の「描きて」の主語がどちらとも取れるのである。 塩を焼く海人の絵は、「焼く」と「役」の両義が含まれているところに趣向がある。これを思いついたのは、当然絵を描いた本人だろう。宣孝から、「あなたに恋して身を焼いています」という意味の歌が贈られ、式部は海人の絵を描き、歌を描いて、「あなたの『やく』とは、こういうことですね」と切り返す。あるいは、海人の絵は宣孝が描いてきて、「樵り積みたる投木」だけを式部が書き足したのかもしれない。いずれにせよ、式部はありふれた塩を焼く、恋に身を焼く、という掛詞から発展して、新趣向を思いついたことで、宣孝に「なかなかやるな」と思わせたかったのではないだろうか。 |