はるなれど

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    年かへりて、「唐人見に行かむ」といひける人の、
    「春は解くるものと、いかで知らせたてまつらむ」といひたるに

28 春なれど 白嶺(しらね)の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな

    近江の守の女 懸想ずと聞く人の、「二心なし」など、
    つねにいひわたりければ、うるさくて

29 みづうみの 友よぶ千鳥 ことならば 八十のみなとに こゑ絶えなせそ

    歌絵に、海人の塩やく図(かた)を描きて、
    樵り積みたる投木のもとに書きて、返しやる

30 四方(よも)の海に 塩やく海人の 心から やくとはかかる なげきをやつむ

    文の上に、朱といふものを、つぶつぶとそそきて、
    「涙の色を」と書きたる人の返りごとに

31 紅(くれなゐ)の 涙ぞいとど うとまるる うつる心の 色に見ゆれば

    もとより人のむすめをえたる人なりけり。

【通釈】
   
    年が改まって、「唐人を見に行こう」と言っていた人が、「春は氷が解けるもの、
    そのようにあなたもわたしにうちとけてくださるべきだと、どうやって
    お知らせしたらよいのでしょう」と言ったのに

  春とは言え、白嶺山の雪はいまだ降り積もっており、解けるのはいったい
  いつなのでしょう。それと同じように、わたしがあなたに心を開くときがあろうとは思われません。
  
    噂では近江守の娘に求婚していると聞く人が、「二心はありません」など、
    いつもいつも求婚してきていたので、うるさくて

湖の上で友を呼ぶ千鳥さん、どうせなら、いろんな湊で声絶えしないように、
  あちこちの女に声をおかけなさいな。

    向こう(宣孝)から、「あなたを想う心で身を焼いていることです」と言ってきたので、
    歌絵に、海人の塩を焼く絵を描いて、山から伐り出して積んである薪の描いてある横に
    歌を書いて、返事をした

  あちこちの海に、塩を焼く海人が仕事として薪を積んでいるように、あなたも自分から進んであちらこちらの女に対して、「身を焼く思いです」などと言って、勝手に身を焼くような恋をなさっているのでしょうね。

    文の上に、朱というものをつぶつぶと注ぎかけて、「これはわたしの
    血の涙の色です」と書いてきた人の返事に

  紅の涙はいっそううとましいことだ、紅が褪せやすい色であるように、
  移ろっていくあなたの心の色に見えるので。

【語釈】
●年返りて……式部が越前に来て、越年した長徳3(997)年になって。
●唐人……長徳元(995)年9月、若狭の国に漂着した宋人の一行70名あまりが、越前に移送されてきていたのを指す。
●春は解くるもの……春になると、凍っていた氷が解けるように、あなたの気持ちも閉ざしていないでわたしにうちとけるもの。
●白嶺……標高2702m、越前・越後の中でも代表的高山である加賀の白山。歌枕としても有名。春の到来も「不知(しらね)」を懸ける。
●いつとなき……いつと決まった時はない。
●懸想ず……心の中で恋い慕う、または求愛・求婚する。ここは後者。
●白嶺……加賀の白山。
●二心なし……浮気心や仇し心はありません。同時に複数の異性を相手にしたりはしません。
●いひわたる……言い続ける・口頭または手紙で求愛する。
●ことならば……いっそのこと。
●八十の湊……湊は河口という意味を持ち、また舟着き場という意味もある。ここは後者で、あちこちの舟着場。
●こゑ絶えなせそ……女に声を掛け、求愛することをやめないようにね。「声絶ゆ」は声がとぎれる。「声絶え」という名詞ではない。『全評』は声枯れととるが、如何。
●歌絵……和歌に詠み込まれた風景や情趣歌の内容を絵に描き表して、絵とともに歌を鑑賞するもの。
●歌絵に、海人の塩やく図を描きて……(歌絵を)「描きて」の主語は式部、宣孝の2説がある。
・式部 『論考』『大系』 ・宣孝 『評釈』『叢書』『基礎』『国文』
●塩やく……海水を煮詰め、製塩すること。思い焦がれて身を焼く。
●樵り積みたる……山から伐り出してきて、積み重ねてある。
●投木……藻塩を焼くための薪。「嘆き」を懸ける。
●やくとは……あなたが身を「焼く」とおっしゃっている、その「やく」は役(自分の仕事)として。
●朱……朱粉。黄みがかった赤色の染料。
●つぶつぶと……ぽとぽととふりかけて。
●そそきて……注ぎかけて。ふりかけて。
●紅の涙……古くは「血の涙(悲嘆のあまり流す涙)」が多く用いられていたが、平安女流文学では次第に「紅の涙(美人・女性が主に恋の悩みで流す涙)」が増える。

【参考】
『続千載集』巻十七、雑中、1866
「歌絵に、海人のしほ焼くところに、こりつみたる木のもとに書きて、人の許につかはしける
四方の海に 塩くむ海人の 心から やくとはかかる なげきをやつむ」
『続古今集』恋三、1201
「人のおこせたりける文の上に、朱にて涙の色を書きて侍りければ
くれなゐの 涙ぞいとど 頼まれぬ うつる心の 色と見ゆれば」
『秋風和歌集』巻十七、恋中、844
ひとのをこせたりけるふみのうへに、朱をそそきて、涙の色と書きて侍りければ
くれなゐの 涙ぞいとど たのまれぬ うつるこころの 色と見ゆれば」

【考論】
<近江守は誰か>
 29番歌の詞書にある「近江守」、いったい誰なのだろうと思うのは、宣孝の求婚する相手がどんな家の娘なのだろうという興味もあるのだが、それより近江守を特定することで、この歌の詠作年次が判明し、歌の解釈に影響するからである。
 諸注釈書とも、歌が結婚前に詠まれたという点では一致するので、結婚の前後に近江守として記録されている人物をまとめると、以下の表になる。(去任は辞任、補任は任命、見任は記録に見えることを意味する)通説では長徳2年に近江介となった源則忠、また『全評』では平惟仲ではないかと推定されているので、特に惟仲に注目している。

年号

西暦

近江守・近江権守

近江介・近江権介

平惟仲の呼称(記録類による)

平惟仲の官歴

永延元

987

2月、源伊陟・去任

  

 

11月、右中弁

  二

988

 

  

 

10月、近江権介

永祚元

989

 

 

 

4月、左中弁

正暦元

990

 

8月、平惟仲・見任(『小右記』には近江守、実は権介
9月、平惟仲・見任(『小右記』には近江守、実は権介)

8月、左中弁惟仲任右大弁近江守如元(『小右記』)
9月、殿上惟仲朝臣左大弁・近江守(『小右記』) 
10月、右大弁(『本朝世紀』)

7月、右大弁

   二

991

 

   


1月、蔵人頭

   三

992

12月、橘忠望・見任(『諸院宮御移徒部類記』)

 

 

6月、近江介を辞退 
8月、参議

   四    

993

1月、藤原公任・補任 
8月、橘忠望・見任(『本朝世紀』)

 

7月、参議(『本朝世紀』)
10月、右大弁(『本朝世紀』) 
閏10月、参議・右大弁(『本朝世紀』) 

1月、近江権守

長徳元

995

藤原公任・見任

 

10月、勘解由長官(『本朝世紀』)

 

   二

996

 

1月、源則忠(『小右記』には近江守、実は介)

 

7月、権中納言(近江権守・去任

長保元

999

源泰清、補任

7月、源則忠(『小右記』には近江守、実は介)

 

 

 
  上の表から、近江守と推定されるのは平惟仲、源則忠、橘忠望、藤原公任、源泰清である。 
 藤原公任は康保3(966)年生まれで正暦4年時点で28歳。適齢期の娘がいたと考えるのは苦しい。仮にいたとしても、10代であろうから、そんな娘に50歳近い宣孝が求婚するのは、紫式部との結婚以上に不釣り合いである。 
 源泰清は、式部が宣孝と結婚して以後の補任であるので、29番歌で近江守と呼ばれることはまずあるまい。 
 平惟仲は近江権介、近江介、近江権守と、長期にわたって近江に関わっていたので可能性は高い。『全評』はこれを重視して、平惟仲であろうとする。ただ、気になるのは、惟仲が権介であったときも、則忠が介になったときも「近江守」と呼ばれていることである。『全評』は則忠を退ける理由に、近江介を近江守と呼ぶことはないというのだが、明らかに『小右記』は介を守と言っている。則忠もまた、近江守と称する資格がある。 
 それに、『全評』は惟仲が近江の国政を取り仕切っていただろうとするが、近江権介時代から、惟仲は左右中弁、右大弁、蔵人頭と、いずれも激務を担当して在京の身である。近江の国政を顧みる暇があったとは思えない。特に権守は遙任であるというのは常識である。『本朝世紀』が近江守惟仲と呼ばず、京官を冠しているのもそのせいだろう。また、『小右記』に見える惟仲の名も、「左中弁惟仲近江守」などと記されているのであって、名前の下に「近江守」が付けられていても、「近江守惟仲」ではない。惟仲はふだんから、京官の肩書でもって呼ばれていたと考えるべきだろう。式部だけが、惟仲を近江守と呼ぶのはおかしい。 
 次に、橘忠望だが、この人を守とすると、公任の補任後も守であるのと重なってしまう。また、惟仲が近江権守になったのとも重なってしまう。よって、忠望の場合も、実は近江介なのを、「近江守」と呼んでいるのではないかと考えられる。そうすると、忠望は惟仲が近江介を辞退した正暦3年から、源則忠が任ぜられる長徳元年まで近江介の地位にあったと思われる。長徳元年を境に、前任となる忠望、後任の則忠が式部の言う「近江守」の候補になるわけである。
 だが、この二人のいずれかとなると、決め手がない。二人とも、年齢的には問題がない。則忠は天暦3(949)年生まれ。忠望は不明だが、生没年の判明する親族との関係から、おそらく為時より数歳から10歳ほど年上。式部と同じくらいの娘がいる可能性はある。次いで宣孝との血縁関係を見ても、二人とも格別近しいというわけではなさそうである。
 強いて言うならば、則忠は為時と同じように『本朝麗藻』に名が残る詩人であり、宣孝は式部に求婚したのと同じ理由、つまり詩人の娘ならば教養ある女性ではないかという期待から、則忠の娘に求婚していたのかもしれない。
 また、則忠の息子の源道成は、式部とほぼ同年齢で、蔵人・右衛門佐を勤めた経歴を持っている。式部も、父の為時が蔵人であったとき、宣孝と同僚として顔を合わせる機会が多かったため縁談も起こったのだろう。とすると、宣孝が同じ衛門府に勤める道成の姉妹と(つまり「近江守のむすめ」)結婚しようと考えても、不思議ではないのである。

<式部の歌絵>
 当時の人々がどの程度絵心があったか、は『源氏物語』から推測できる。それによると、光源氏は須磨や明石で手すさびに描いた絵が後に絵合の巻で名人と番えられるほどであるし、秋好中宮も冷泉帝の前で、みずから絵を描いてみせている。上手下手はあるにせよ、平安貴族は文字を認めるように、ごく気軽に絵を描いていたらしい。
『源氏物語』の登場人物たちに絵を描かせているところからみると、式部自身もよく絵を描いていたのだろう。
 ところで、この歌絵は宣孝、式部のどちらが描いたとするのが正しいか。詞書では、前の「描きて」の主語がどちらとも取れるのである。

 塩を焼く海人の絵は、「焼く」と「役」の両義が含まれているところに趣向がある。これを思いついたのは、当然絵を描いた本人だろう。宣孝から、「あなたに恋して身を焼いています」という意味の歌が贈られ、式部は海人の絵を描き、歌を描いて、「あなたの『やく』とは、こういうことですね」と切り返す。あるいは、海人の絵は宣孝が描いてきて、「
樵り積みたる投木」だけを式部が書き足したのかもしれない。いずれにせよ、式部はありふれた塩を焼く、恋に身を焼く、という掛詞から発展して、新趣向を思いついたことで、宣孝に「なかなかやるな」と思わせたかったのではないだろうか。