ここにかく

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    暦に、初雪降ると書きたる日、目に近き日野岳といふ山の、
    雪いと深う見やらるれば

25 ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる

    返し

26 小塩山 松の上葉に 今日やさは 峯のうす雪 花と見ゆらむ

    降り積みて、いとむつかしき雪を掻き捨てて、山のやうにしなしたるに、
    人々のぼりて、「なほ、これ出でて見たまへ」といへば

27 ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし

【通釈】
    暦に、初雪降ると書いてある日、見た目には近い日野岳という山の雪が、とても深々と積もっているように見えたので、

  ここ越前では、このように日野岳の杉の木立に雪が降り、埋もれんばかり。今日は都の小塩山の松に降り積もっているだろう雪と見紛うばかりだ。

    返事

  そうしたら、今日は小塩山の松の上葉に雪が降って、峯に積もった薄雪が花のように見えることでしょう。

    降り積もって、たいそううっとうしい雪を掻いて捨て、山のように積み上げたものに、人々が登って、「やはり、これを出てきてご覧ください」と言うので

  その山がふるさとの京に帰る途次に見られる、あの鹿蒜(かへる)山なら喜んで雪山を見てみようと思うけれど、そうではないのだから、気が進まないことだわ。  
     
【語釈】
●暦に、初雪降ると書きたる……具注暦(中務省陰陽寮で作成された暦が毎年十一月一日、宮廷に献上され、政府や官庁などに配布された。式部もこの具注暦を入手して見ていたのだろう)に「初雪降る」と書いてある日。古本系では「書きつけたる」とあるが、これでは式部が自分で「初雪降る」と書いたことになる。それよりは、暦に書いてある「初雪降る」を見て、すでに日野岳に降り積もっている雪を仰ぎながら、京では今ごろ初雪が降っているだろう、と感慨にひたるほうがよい。
●目に近き……目前に見える。
●日野岳……福井県武生市東南にある標高795mの山。養老2(718)年、泰澄によって開山され、越前五山の一つに数えられる。
●杉むら……杉の群生しているところ。
●小塩……小塩山は京都市西京区大原野春日町の西部の山。藤原氏の氏神、大原野神社がある。『源氏物語』行幸の巻に、小塩山を詠み込んだ歌がある。 
  雪深き 小塩山に たつ雉の 古き跡をも 今日は尋ねよ
  小塩山 深雪積もれる 松原に 今日ばかりなる 跡やなからむ
 これらの歌にも「今日」が見られ、相関関係にあると思われる。
●今日やまがへる……下記【考論】参照。
●むつかしき雪……わずらわしい、うっとうしい、うんざりする雪。
●山のやうにしなしたる……わざわざ山のような形に雪山を作った。
●帰る山路……「帰る」に、都への帰路にある「鹿蒜」山を掛ける。
●心やゆく……気も晴れようかと。心が慰められようかと。
●ゆきも見てまし……「雪」と「行き」を懸ける。まあ、行って雪を見もしようけれど。

【参考】
『夫木抄』雑十一、杉、13908
「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる」
   
【考論】
<”まがへる”の意味>
 25番歌の「まがへる」は、諸注釈書を見ると二通りの意味に分かれており、そのために歌の解釈も異なっている。
・(小塩の松に雪が)乱れ降る、乱れ散る 『集成』『新書』『大系』『全評』『叢書』
・(雪は小塩の松と)見間違う 『論考』『国文』『評釈』
 『源氏物語』で自動詞四段の「まがふ」を抽出してみると、以下のようになる。(■は和歌)

螢しげく飛びまがひてをかしきほどなり(帚木) 
■鳥辺山燃えし煙もまがふやと     (須磨)  
衣被香の香のまがへる、いと艶なり。(初音)
瓶の桜すこしうち散りまがふ。 (胡蝶)
■風騒ぎむら雲まがふ夕べにも (野分)
松原も色まがひて、よろづのことそぞろ寒く、(若菜下)
時雨、いと心あわたたしう吹きまがひ、  (夕霧)  
  
■恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は     (須磨) 
雁の連ねて鳴く声、楫の音にまがへるを、うち眺めたまひて、(須磨) 
■浮雲にしばしまがひし月影の    (松風)                      
前栽の花に見えまがひたる色あひなど、ことにめでたし。(松風) 
■もの思ふ袖に色やまがへる     (薄雲) 
歌ふ声、鈴虫にまがひたり。 (篝火)        
■たをやめの袖にまがへる藤の花  (藤裏葉)                       
■紫の雲にまがへる菊の花          (藤裏葉)  
竹の節は 松の緑に見えまがひ、插頭の色々は、(若菜下)
■祝子が木綿うちまがひ置く霜は        (若菜下)
 
 上半分はいずれも「〜に」のないもので、意味も「散り乱れる」である。一方下半分は「(主語)+〜に」で意味は「(主語)が〜と区別がつかない」となる。
 となると、「埋む雪小塩の松に今日やまがへる」は埋む雪が小塩の松に似ていて区別がつかない、となるはずである。
 ところが、「まがへる」の意味が判明しても、和歌全体の訳がまた二通りある。
・埋む雪は小塩の松に見間違う 『評釈』『国文』 ・埋む雪は小塩山の松と見間違うはずがあろうか 『論考』
 『論考』では豪雪の日野山と、初雪を戴いた優雅な小塩山の松とでは見間違えることもない。だからここの「まがへる」は反語とみるべきだというのだが、上の小塩山の語釈でも述べたように、小塩山というのは深雪を連想する地名である。たしかに越前の豪雪は式部の想像を超えていただろうが、小塩山の松も、うっすらと降る雪よりはある程度積もった状態がイメージされていたと考えると、『評釈』や『国文』のように素直に解釈してよいのではないだろうか。
 小塩山に今日雪が降ったなら、日野岳の杉木立に積もっている雪も、小塩山の松に降った雪と見間違えることだと、山→積もる雪、と対比させて言っているのであろう。解釈としては『評釈』に近い。『全評』は『評釈』のように訳すと、重点が日野岳の杉むらに置かれてしまい、式部の望郷の念が薄れるというが、そんなことはない。目の前の白い杉木立の塊が小塩山の雪景色だったらいいのに、と思う式部の気持ちはこの訳でも損なわれないと思う。