めぐりあひて

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    はやうより童友だちなりし人に、年ごろ経て行きあひたるが、ほのかにて、
    七月十日のほど、月にきほひて帰りにければ

1 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影

    その人、遠き所へいくなりけり。秋の果つる日来たるあかつき、虫の声あはれなり

2 鳴きよわる まがきの虫も とめがたき 秋のわかれや 悲しかるらむ
 

【通釈】
    早くから幼友達であった人に(この人は地方にいたのだがこのほど帰京したので)、
    数年を経てめぐり逢ったのが、その友とはっきり確かめられなかった。
     ときは初秋七月十日のころ、友は早くに沈む月と競うように慌ただしく帰ってしまったので

  めぐり逢って、あのなつかしい幼友達と見定めることもおぼつかないほどの短い時間。
  その間に隠れてしまった夜半の月、その月明かりに照らされた友の姿も、
  逢っていたことさえも、なんとおぼろだったことか。

    その人は、帰京してきたばかりだというのに、再び遠いところへ行くのであった。
    秋の果てる九月最後の日にやってきて、
    一晩中語り明かした暁、虫の声は感慨深げに聞こえてくる
    
  冬が近づいて、弱々しく鳴く籬の虫たちも、わたしがあなたを引き留めることができないように、
  過ぎゆく秋の別れが悲しいのだろう。
 
【語釈】
●はやうより……幼いときから、ずっと以前から。
●童友だち……裳着をしない、子どものころからの友だち。
●行きあひたる……「偶然会う」、「互いに訪ね合う」、「月日を経てめぐりあう」「合流する」「一致する」などの意味がある。約束をして逢い、実際には長い時間をかけて語り合っていたとしても、式部自身には短く感じられたということは考えられる。が、それならば友達のほうも、初めから余裕を持って逢いにくるはずで、月と争うようにして慌ただしく帰る必要はないはずである。おそらく偶然出会ったものであろう。
・偶然逢った 『論考』『全評』『基礎』 ・約束して逢った 『新書』『集成』
●ほのかにて……『全評』は時間的僅少性と、視覚的不分明性があるという。この二つのどちらに重点を置くべきか。時間的に短かったとするほうが、友人との思いがけない邂逅を喜んでいるうちに時間が過ぎてしまった、と嘆く式部の心理を反映できるが、歌に「見しや」とあり、「月にきほひて」の表現で時間的に慌ただしかったことは述べられているので、視覚について言っているものと解してよいように思う。
・時間的僅少性に重点 『全評』 ・視覚的不分明性に重点 『新書』『評釈』『論考』『集成』 ・両方『大系』
●七月十日……定家本系・古本系では十月十日とするが、『新古今集』・別本系諸本では七月十日とある。『二元』では十月十日が正しいとしている。
●月にきほひて……早く沈む初秋の月と先を争うようにして。
●帰りにければ……完了助動詞「ぬ」の連用形「に」を使用することで、友だちが「帰ってしまった」と寂しさを吐露する余情が生まれる。
●めぐりあひて……年月を経て。月の縁語。月が東から西へと大空を繰り返しめぐりゆくように、月日がめぐりたつこと。
●見しや……わたしが見た月=友だちは、まあ。「見し」+疑問の係助詞「や」。「見しやそれなるとも」。
●それともわかぬ間に……逢ったあの人が、なつかしいあの友だったのかどうか、十分見分けることもできない、束の間に。
●遠き所……当時の平安貴族にとっては、距離の問題だけではなく、都から離れており、文化の香のないところはすべて「遠きところ」となる。
行くなりけり……行ってしまうのであった。そのことを聞いた式部が驚きと詠嘆・落胆を感じたことを表す。
●秋の果つる日……一般的には秋は7・8・9月とされるので、暦日表現で考えると「九月尽」と同義で9月末日ということになる。が、節月表現では立冬の前日と解釈し、やはり9月下旬〜10月上旬であるが、その年によって、日付がかなりずれる。
●来たる……「来て在る」の意味。友だちは昨日から来ていて、今もいるという、存続の状態。
●あかつき……夜が明けようとして、まだ明け切らない、朝の最も早い時間帯。平安時代の朝の語句はあかつき、あけぼの、しののめ、あさぼらけ、あした、という順に経過する。
●鳴きよわるまがきの虫……籬にいる虫たちには、冬が近づくにつれ、死が迫ってくる。だからもう鳴き声も弱々しく、か細い。
●とめがたき秋のわかれ……「とめがたき」の主体は「まがきの虫」である。秋と別れるということは、死を意味するものであり、止めたいものだが止められない。「まがきの虫も」とあるので、この秋、友だちと別れたくはないが、遠きところに行く友を止めることはできない、という式部の心情をも表す。
●悲しかるらむ……主語はまがきの虫。悲しいのだろう。

【参考】
『新古今集』巻十六、雑上、1499
「早くよりわらは友だちに侍りける人の、年ごろ経て行き逢ひたる、ほのかにて、七月十日の頃、月にきほひて帰り侍りければ
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月影」
『千載集』巻七、離別、478
「遠き所にまかりける人の、まうで来て、あかつき帰りけるに、九月尽くる日、虫の音哀なりければ 
なきよはる まがきの虫も とめがたき 秋の別れやかなしかるらむ」

【考論】
<童友だちとは誰か>
『紫式部集』の巻頭を飾るこの歌に登場する式部の幼友達とはどういう人なのか、式部とはどういった繋がりがあったのか、気になるところである。与謝野晶子は式部が女童として昌子内親王に仕えたころの友達ではないかと言っているが、根拠がない。
 可能性の高いのは、この童友だちも親が受領階級の人だということである。友だちの一家はこれまでその任国に赴任していたのが、最近帰京してきた、それで式部に会うことができた。ところが父親がまたすぐ別の国に補任され、下向しなくてはならない。つまり、

1)友だちの一家は某年七月十日以前には帰京している
2)友だちの一家は某年十月初めごろ次の任国へ下向している
3)友だちの父親は間をおかず次の任国へ行くので、式部の父為時より羽振りがよさそうである
4)友だちの父親の年齢は、為時と大差ないものと思われる
5)友だちの父親は、為時の知り合い、または縁戚関係にある受領階級の者と思われる
6)友だちの父親の次の任国は畿内など近国ではない、遠い国だと思われる

 『世界』では6番歌の「筑紫へ行く人のむすめ」を15番歌で姉妹の約束をした人と同一人物とし、その年(長徳2年夏)から溯って考えると、この1番の歌は長徳元年であり、長徳元年に国司として下った人物は、同年陸奥守となった藤原実方以外にはいない、ゆえにこの童友だちは実方の娘だとする。しかし、この実方と娘は上記の条件すべてに適合するわけではない。1)・3)は実方が陸奥へ下る前は京官を勤めていることで否定され、5)も実方は式部の父為時よりは上流階級にあり、娘同士もその階級差を感じなかったかどうか疑問である。
 ここで、『二元』による説、つまり十月十日でよいとする説を考えてみる。1番歌は正暦4(993)年ではないかという。「秋の果つる日」を立冬前日と考え、十月十日以降に立冬の来る年を挙げるのである。すると、式部の娘時代では正暦4年(立冬は十月十四日)ということになる。
 正暦4年ごろに地方官だった人物で、上記条件に合いそうな人としては、平維敏がいる。『世界』は、姉妹の約束をした友だちは式部の従姉であるとし、肥前守となった人物は平維将だと主張しているが、維敏はその弟に当たる。もっとも、維敏は翌年3月には任地で没しているため、その家族はすぐ帰京してきたのかもしれない。いったいに、この平氏一族(平貞盛とその子孫)は陸奥や常陸の守・介を歴任しており、式部の親族もまた陸奥と常陸の国司を経験している人がいる。伯父の為長などがその一人で、『世界』によれば為長・為時の姉妹は平維将の妻だったというから、維敏とも知己であった可能性は高く、式部が維敏の娘と交流していたことは十分考えられる。
 『二元』ではもう一つ、消極的ながら正暦元(990)年説も提示している。2番の詞書が1番の補足になっているとするならば、「十月十日」と「秋の果つる日(立冬の前日)」が同日と解せる。それは式部の生涯では正暦元年しかないからである。
 正暦元年、地方に下った人物としては、肥後守源為親がいる。この人は、為長の妻(源為幹の娘)の兄弟である。為親の母は参議藤原玄上の娘だが、玄上の妻は堤邸の近くに邸を構えていたという。もし為親と為長の妻が同腹で、為長の妻がこの邸に住んでいたなら、式部と為親の娘が親しくなることもあり得る。また、源為親の兄弟に源為憲がいる。この人は『三宝絵詞』を著し、慶滋保胤の勧学会にも集った人で、具平親王と交流があったとみられる。具平親王と言えば、為頼や為時と親しい人で、源為親も当然このグループと交わっていただろう。為親の娘が「童友だち」であったと考えると、何もかもうまくいくように思われる。もっとも、為親の肥後守任官以前の官歴がはっきりしないので、1)・3)は適合するとは言えない。
 もう一人、正暦元年に越後守となった人物で藤原理兼がいる。この人は藤原朝忠の子で、朝忠は定方の子であるから、定方女を母とする為時とは従兄弟同士になる。しかも、為時の姉妹の一人(平維将の妻とは別人)は藤原理兼の妻だったという説があり、このことからも理兼の娘が式部に近しい人であったという裏付けが取れる。そして、理兼の場合は越後守になる以前は備前守であり、永延2(988)年ごろまでは任国に赴任していたらしい。
 以上、可能性のある人物を列挙してみたが、やはり決め手になるものがない。私見としては、正暦元年説も捨てがたい。源為親、藤原理兼ともに式部と近しい縁戚関係にあり、同じ受領階級だ。しかも、正暦元年の十月十日は晴天だったとわかっている(『権記』等)のである! 

 ただし、この推論も、友だちが父親ではなく、夫に従って地方生活を送っているとすると、根本から違った結論となる。
また、たとえば友だちが家族と離れて単身帰京し、結婚して今度は夫についていくことになった、などということも考えられるのである。式部と友だち、共に結婚できる年齢であったとしても、不思議ではないからだ。式部の童友だち探しは至難である。