「三田平八郎」先生の事を書くのは、自分が良い生徒では無かったので、何か憚られて先延ばしにしていたのだけれど、そろそろ良いかな、と思い書く事にした。

これまで菅原先生、ヘンカー先生の事とその影響を書いて来た。そして三田先生にも、もちろん大きな影響を受けた。小沢征爾氏がカラヤン氏から「飯でも」と誘われると、畏まった感じがあるがバーンスタイン氏からだと気楽な感じがした、と言う意味の事を書いておられた。私にとっては前者が三田先生、後者が菅原先生と言うのが適当だろうか。何れにせよ、お二人を尊敬している事は間違い無いのだが。

さて、話を始めよう。三田先生を言い表すなら「日本ファゴット界の巨星」とするのが至当だろう。日本のファゴット界を黎明期から見て来られた方であると同時に、音楽界そのものの発展をご自身が経験された方である。また軍楽隊出身の奏者が多いファゴット界にあって、東京商大(現・一橋大学)出身と言う異色の奏者でもあった。三田先生自身がファゴット奏者になられたストーリーをまず書こう。それ程詳しく存じあげている訳では無いし、私の記憶違いもあると思うので、気が付かれた方には御一報戴きたい。

先生は商大を出られてから東芝に勤められ、戦争が始まり招集されるまでおられたそうだ。その頃は人事課長の地位にあったとの事。エリートサラリーマンだったのだ。しかし、復員した時にはサラリーマンに戻る気も無くなり、さてどうしようかと思われていた時に旧知のフルート奏者吉田雅夫氏から「日響(現・N響)で一緒にやろう」と誘われて、楽隊もいいかとプロになられたそうである。楽器を何時から始められたかも聞いているはずだが思い出せない。当時の音楽界の話を随分伺った。そうした話は後にN響団友オーケストラでも色々な人に聞いているが、貴重な体験だった。

最初に手にされた楽器はフランス式だったそうである。理由は「ヘッケルは高く、二倍の値段」からだった。確かに今でもヘッケルは高い。イギリスの奏者ギディオン・ブルークもブージーアンドホーク社製のフレンチで始めたそうだが、当時は彼の国ではこれが主流だったので当然だ。ここで面白いのはやはり値段である。後にヘッケル式に変り、アドラーを買うのだが30ポンドだったそうだ。そして前の楽器はと言うと3分の1の10ポンドだったとの事。当時の1ポンドが凄い価値だったのにも驚くけれど。これを知った時、三田先生がおっしゃった事が完璧に理解出来た。

三田先生は猛烈に頭の良い方だったと思う。加えて語学(英語とドイツ語)にも堪能で、列車が大好きな方だった。音楽学校を出ないで、この世界に飛び込んだ時、頼りになるのは自分自身の探求心だけだっただろう。だから、何でも自分で勉強し考え経験されたからだと思うのだが、三田先生の言われる事は、何時でもどんな事でも根拠を示す用意がされているのだと感じられた。観念的では無く、実際的なのだ。フィンガリングなども実によく知っておられ、何でも教えて下さったが、プロになって初めて理解出来た事も多い。リードや楽器の事も実によく研究しておいでだった。一例を挙げよう。ブーツのCisトリルキーを延長してある楽器は御存じだろう。あれは三田先生が考えられてピヒナーに造らせ、広まったものである。これはピヒナー本人が「三田モデル」と言っていた。ドイツ語と英語を自在に駆使され、持前の好奇心を満たしておられたのだろう。それが日本のファゴット界に大きな足跡を残される事になった。何よりも「人に伝えたい」事を山の様にお持ちで、それが理解される事を一番望まれたと思うのだ。

先生の面識を得る事になったのは、現在ドッペルロアを経営している竹田雄彦君のお蔭である。法政のオケに彼がエキストラに来て、仲良くなった。その時に「森川さんは藝大に来るべきですよ。三田先生を御紹介しますから」と言ってくれた。まあ、御世辞だなと思ったのだが、実際に紹介してくれた。彼には今でも恩義を感じている。

その折に三田先生が「仲間が欲しいなら、大学を辞めなくても別科には入れますよ。」とアドヴァイスを下さったのだ。今から思えば冷や汗が出るが、学校を辞めて受験を考えていた。受かる訳が無い。ファゴットは何とかなっても、他の事は無理だった。甘い甘い、「盲、蛇に怖じず」ですな。と言う訳で、大学4年次に別科に入った。念の為だが、別科だからと言って誰でも入れる訳では無い。この時も4人受けて2人は落ちている。とは言え、まあ入ってからは実力の無い事を思い知らされるばかりだった。

先生は一度言った事は二度言わない、と決めておられたようだった。別科に入った時、最初に「音」に関して話して下さった。それは「ファゴットの音はね、空気と砂で出来ているんだよ。」

はあ、と言う感じだった。今でも理解出来ているとは思えないのだが、追加的に「分からなくなったら、チェロの高い音を思い起こしなさい。」と言われたので、少し分かった気がした。もう一度伺おうと、後日尋ねようとすると、「音の事は一度言えば充分だから、その事はもう言わないよ」と言われた。後で考えたのだが、最終的に個人が決める問題に付いてはそう言われていたと思う。合奏に必要な事は、学生が「また言ってる」と思うほど、頻繁に言われていた。そして、そうした事がプロとして演奏し始めた時に大いに役に立った。三田先生は無駄な事を話されてはいなかったのだ。

しかし、貧乏していた私は合宿や旅行に参加する事は無かった。三田先生は「お金はいつでも貸すから」と言って下さったが、返すあても無いのにそれは出来なかった。それでも一、二度はそうした所に行ったかな。しかし、それでも先生の想い出は数多くあって、書き切れない。

何か当時は三田先生と縁が薄い気がして、自分は慕っていたのだが、余りいい生徒では無いし、それほど可愛がられてもいなかったと思っていた。学部の学生が出来る事も同じ様には出来ないし、自分の居場所ではない気もしたし、心中は穏やかでは無かった。当時はかなりひねくれていたのだろう。思えば、随分御世話になっていたのだからそう思う事自体、忘恩のそしりを免れないのだが。三田先生は、私が別科を出てからも何かと気遣って下さっていたが、何とも情けない事に、私は分かろうとしなかったようだ。

最初の仕事を紹介して下さったのも先生だった。今でも覚えている。日フィルでウェーバーの「“オベロン”序曲」シューマンの「ピアノ協奏曲」(Pf)中村紘子、それに「幻想交響曲」。井上道義氏の日本デビューの演奏会だった。幻想の4番ファゴットが私の初仕事だった。他の学生にも「使ってやってくれよ」と影で言って下さったらしい。分かったのは、亡くなられた後だったが。

先生のお葬式では、生徒全員がお骨を移す儀式を許された。末席で私もそれをさせてもらった。小さいお骨になられた先生を目の当たりにして、その後誰もいない所で泣いた。

後に、現在東フィルで吹いている大兼久君(彼は一緒に別科に入った同期)と話している時に、そうした話が出た。「私は三田先生に良く思われてはいなかったから」と言った時だった。「何を言っているんですか、森川さんくらい三田先生に可愛がられた人はいませんよ。」と言われた。驚いた。「森川さんには、三田先生はいつでもリードを上げていらしたし、楽器だって藝大の物(フォックス)をすぐに借りて下さったじゃないですか。そんなにしてもらった人は他にはいません。それに『森川君はアマチュアだけれど、音に対する感覚は素晴らしいから、皆も見習いなさい』とまで言ってらしたんですよ。」

全く情けない迂闊な話だ。若かったからとは言え、受けた恩義に気付かないとは。正面切って言われないと分からないのか、ボケ!。藝大が居御地の良い所で無かった事、第1の先生は菅原先生と思っていた事も理由ではあるが、言い訳にはならない。楽器やボーカルも何の手数料も無しにお世話して戴いたし、他にも色々あったのに、気付かない方がおかしい。もちろん三田先生を尊敬し、教えを活かそうとしていた事は確かだが、甘ったれていたんだなあ。不出来な生徒で申し訳ありません。だから私は生徒の我儘でも、出来るだけ聞く様にしている。腹が立つ時もあるが「三田先生に自分は同様の事をしていたのだ」と思う事にしている。取り返しはつかないが、せめて三田先生が教えて下さった事を世間に広め、ファゴットと音楽の素晴らしさは伝えたいと願うだけだ。

さて、こうして書いていると色々な事が思い起こされるが、もう止めよう。現在、三田先生の思いの幾分かでも出来ているかどうか分からないが、あの世で御報告したいと思う。その時、どんな御言葉を戴けるのか楽しみにしよう。

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