なぜ人は音楽が必要なのだろうか ?

 

人の心は言葉だけで表されるものでしょうか?

言葉には行き違いがあり、相手の語感によって同じ事が違って伝わります。言葉の解釈は、案外個人差があるものですから。話しぶりでも伝わり方は違うでしょう。悪意が無いのに悪意に取ったり、取られたり。ある部分で言葉の表わすものははっきりしているだけに取り消せない恐さがあります。では文章ならどうでしょう。読み返す事も出来るし、じっくり考える事も出来ます。

私はいつもメールを遣り取りする時に、相手がどんなフォントを使っているのか気になります。私はこのHPで使っている「HGれいしっく」と言うフォントを、メールでも使っています。でも、相手がそのフォントを持っていなければ、どちらも堅い明朝体かなんかになってしまいますよね。自分は優しく書いているつもりが、相手には酷く冷たかったり強かったり感じられる危険は大いにあります。逆に、強い調子が妙に優しく感じられる事もあるでしょう。思いやりのつもりが、皮肉に取られたりしたりもするでしょう。何れにしても、言葉の解釈、語感の問題を避ける事は出来ません。

しかし、最大の問題は別な所にあると思っています。人の心が「クラスター(塊)」だからです。人は思考する時は言葉に従って考えます。でも一気に襲って来る心のクラスターも同時に感じる筈です。喜怒哀楽、同時に押し寄せる事だってある。言葉にすれば同じでも、その人の心は「そこ」にあるのかどうか分かりません。後追いで言葉を連ねても、当初の気持から離れて行く経験をしない人はいないでしょう。気持が言葉を越える事は、言葉が心を越える事より遥かに多いでしょう。だから、人は気持を言葉にしようとして詩や散文を連ねるんです。名作は確かにあります。それでも、言葉の限界があります。詩にしか使わない特殊な言葉さえ、一気に表現する事は難しいでしょう。

ここに音楽の登場する場所があります。また、戯曲の書かれる意味もあります。作曲家と戯曲作者、演奏家と役者は似ています。人に演じられる事を目的として書かれたものがあり、人の書いたものを演じる目的で稽古に励む者がいるからです。更にオペラはその両方を融合させるものです。自分の気持を表現したいのに、自分で表わせないと言うジレンマを、こうした芸術が代わりに物語るのです。人は多く、自分の事を語れないものだから。そして人は正しい事を考えながら、不実もまた思うものだから、だから芸術は人のこうした心を取り扱い、偉大な作品のテーマは常に「人」「心」であり、ちっぽけな人間の内面に偉大な宇宙を構築して行くのです。絵空事が実体化して行くのです。

もっとも、音楽にはそうしたものを拒絶する理知的な面もあります。人間には「知」「情」「意」ある訳で、何処に照準を合わせるかは個人差があります。この文章ではその面は取り上げません。いかに人の心が音楽を求めるか、に絞って論じています。

「愛する事」を表現する言葉は多く存在します。控えめなものからダイレクトなものまで。でも、言葉にならない気持の方が多いのだろうと思うのです。オペラにはそれを補完する音楽があるので、単純な言葉一つで「不自然」なまでに「自然」に心情が観客に理解されてしまいます。例を挙げましょう。

トスカの愛とミミの愛は違う、カバラドッシとロドルフォも違う。プッチーニの音楽は見事にそれを表現します。もちろん状況設定も違うので当たり前と言われればそうですが、この人達が登場した瞬間にその「人」が理解されるのは音楽の助け無しには無理です。ボエームの別れの二重唱では、男の愛と女の愛の違いが完璧に表現されます。 音楽芸術は子供の為に書かれたものではないので、大人の愛の有り様は子供には理解できないでしょう。しかし、音楽は子供も理解します。少なくとも、楽しい場面だったり逆だったり、年齢なりの理解は出来るのです。聴衆の立場、年齢、環境によって受け取り方は変るでしょうが、確かにオペラは言葉以上の感情を直接訴えて来るのです。

それから、オペラには台本があります。作曲家もまた、他人の言葉を我がものにして世界を広げるのです。こうしたコラボレーションは素晴らしい。そして、演者や演出が変る度に印象は変ります。しかし、こうしたコラボレーションと再演の繰り返しの中に、そうしたものが変っても、何一つ変らない「人間」の真実があるのです。どうやっても変らない「人間の心」と言うものです。それの認められない舞台に人は感動はしないのです。違いますか?

コンサートホールも一つの舞台

器楽のアンサンブルをする時も同様です。身勝手な、自分が良ければ満足、と言った演奏は聴くに耐えません。このHPで何度も書いていますが、演奏もまた自分を表現して、人と(楽器で)会話もして、「自分も立つが、相手も立つ」のでなければ良い演奏にはなりません。もちろん、人により満足の程度に差異もあります。だから、いつも自分より優れた相手を探すのです。お互いに影響しあえる相手を探すのです。才能は才能に寄ってしか見付けられません。自分の才能を認識し、能力を高められなければ、そうした相手は見付からないでしょう。簡単な事ではありませんが、ある意味で簡単でもあります。そして、才能は磨いてみなければ分からないものです。私は中学高校で自分自身の事が分かりませんでした。自発的にと言うより、社会情勢の所為でファゴットを吹く事になったのですが、先行きは不安だらけでした。仕方なしにやっていたら、こうなっただけです。でも、楽器が上手くならなければ、音楽を知らなければと言う欲求が無ければ、何も磨けなかったと思うのです。

一人で出来る事には限界があります。人は人によって育てられ、育てられた人が誰かを育てるのは人間が繰り返して来た事です。育てられた側に、そうした認識が少ないのは親と子の関係に似てますね(苦笑)。オペラや演劇の世界で繰り広げられる舞台のコラボレーションは、人生のそれに似ています。だから人はそれに惹かれ、演じたい、舞台を作りたい、と思うのではないでしょうか。舞台の上で或る人生が演じられ、それを取り巻く人達も己の人生を投影し、観客も鏡を見る様に人生を感じる、こんな舞台が理想です。

そして言葉の無い「音」にもそれは感じられる筈です。偉大な演奏家の音にはまさにそれがあると思うのです。豊かな音、優しい音、強い音、物悲しい音etc.そして音楽は進み、言葉にならない感動を得る。そして、そうした音こそがクラスターとしての、心を、人生を、表現するものでは無いでしょうか。繰り返しますが、言葉以上に音が雄弁に物語る事は確かにあります。そして、音楽に心を吹き込む事は「演奏家」にしか出来ません。生命の息吹を、人が人である事を、人ゆえの強さや弱さ、そうした事を表現するのが大事なのでは無いかと思うのです。コンサートホールには、(言葉では)演じられてはいないけれど、ダイレクトに表現される人生のクラスターがあると言うと、おかしいでしょうか。

またしても消化不良ですね。もっと細かく書いて行くべきなのだけれど、ウェッブ上で長い文章は禁忌ですから。

でも、きっと書き直しをしますね、少しずつ。かなり長くなるかも。

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