さて、アマチュアの演奏家の陥りやすい傲慢と、プロと呼ばれる演奏家の傲慢はどう違うのでしょう。

基本的に私は変わりは無いと思っています。プロはアマのなれの果てですから。前回にも書きましたが、作曲者への慮りの無い演奏家は駄目です。楽譜の成り立ちを考え、どうしてこう言う記号をかいたのか、同じ音形でも違いが出るのか、など考える事は沢山あります。長くプロでやっていると、考える事を止めてしまう人がいます。誰かの言う通り、聞き覚え、適当に処理して、慣れたやり方でお仕舞いと言う訳です。言われた様に演奏していれば楽な訳です。何度も経験すればマニュアルの様なものも自分の中に生まれてきます。

確かに「経験」は貴重で「仕事」として演奏しないと出来ない事も多く存在します。飽きるほどやってレパートリーになると述べたのは、それを指します。アマチュアでやっていては身に着けられない物ではありますが、私はこれも人によって良いマニュアルとそうでない物があると考えています。上手下手はありますからね。

しかし、何れにしてもそれでお仕舞い、では自分の音楽が何処かに行ってしまいかねません。仕事では時間をかけられませんから、室内楽でそれを自発的にする事が大事です。それでも仕事(それ自体が悪いのではありません)の感覚を引きずる人は多いのです。以前にベートーヴェンの八重奏曲で聴いた時ですが、第2楽章の装飾音の処理がバラバラで本番を迎えているケースが何度かありました。自発的に装飾音で揉めて結果としてそうなってしまったなら多少納得もしますが、それでも聴衆に何の関係も無い事情です。人前で演奏する意味が無くなります。

大体、「自分はそうはしたくない」と言う人が必ずいるものです。でも本当にそうでしょうか。例えばある版に決めた時、そこに長前打音があったとしましょう。楽譜を読んだり勉強をして、根拠を何処かに見つけたなら、短前打音変える事は悪い事ではありません。しかし、あのCDでそうやっていたでは理由にならない。以前にはそうした、も理由が無い。自分の気持ちにはこっちがぴったりでやり易い、なんて言うのは慣れた方法に固執しているだけでしょう。単に「悪慣れ」しているだけです。

とにかく最善を尽くして演奏しようとする前に、プライドやら経験(それ自体が悪いのではありません)が邪魔をしてしまう事がプロの一番の傲慢と言えましょう。作品の前に謙虚に勉強する姿勢は何よりも大事です。何でも分かっていて、出来る人など何処にもいないのですから、知ったか振りをしないのが得策と言えます。

こうした傲慢は意識せずにやっています。意識してやっていれば逆に分かり易くて良いのですが、自分の傲慢には往々にして気が付かない。下手に出ている様な顔で、優越的言辞を弄する人は必ずいます。

こうした事は、私自身もやっています。間違いなく。だから書くのです、反省も込めて。でも全く無いのも人生はつまらないかな。多少の不都合があった方が努力のし甲斐があるのかも知れません。どうも、天に唾する様な心持ちになってきたのでこの辺で止めておきましょう。

最後にこんな例を書きましょう。それは私の主宰する「アンサンブル松戸・ハイデルベルク」です。ヴァイオリンの長谷川まゆみさんとハンスさんは、いつもはハイデルベルクに住んでいますが、松戸での本番前に1週間缶詰で練習します。いつもそうですが、必ず自分で楽譜を買いスコアを用意します。

大抵の日本人演奏家に「こんな曲をします」と言えば、殆どの人は「で、楽譜は何時貰えるの」と言います。そして、結果として演奏はまるで違うものになるのです。まあ、私も人の事は言えないが普通の人より楽譜は持っています。トゥーネマンも「パート譜を見て勉強するのでは無く、ピアノ譜(スコア)で勉強しなさい」と言っています。

「で、楽譜は何時貰えるの」が如何に傲慢か分かると思います。

アマチュアの演奏家の皆さん、勉強してプロをぎゃふんと言わせましょう。もちろん素晴らしいプロもいますからね。自分が勉強すれば、似非プロに騙されなくて済みます。

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