8月3日(2002年)にエルデオペラの参加する「椿姫」公演が、新百合が丘の「新百合21」で行われた。オペラ・ヌオーヴァと言う団体の主催公演である。なかなか楽しい舞台だった。もちろん本格的な舞台を造ってではないが、狭い舞台にそれなりの演出を施し、きちんとした流れを創っていた。何より歌が上手だった。そして、歌と器楽の人のテンペラメントの差異に思いは馳せたのである。

以前にレナータ・スコット、ルネ・コローと言った超有名歌手のアリアの夕べのオケで伴奏した時だったが、余りの聴衆の熱狂振りに辟易した事があった。何時果てるとも知れぬ大拍手、スタンディングオーヴェーション。オーケストラが舞台を去っても舞台は大騒ぎ。確かに一部の指揮者、ソリストにも見られない事では無いが私の感覚から言えば度を越していた。その時も何故だろう、と思ったが答えらしきものには思い当たった。それがスターと言うものなのだと。そして明確に分かったのは、今回の公演を機に考えたからだ。そうした違いは何処から来るのだろう。

器楽演奏者は、どんな曲を演奏しても「そのもの」になれる訳では無い。例えばメンデルスゾーンの協奏曲を演奏したからと言って、自分が「曲そのもの」になる訳では無く、いつでも相手を客観的に見る事になる。オーケストラでは、もっとそうである。役割はあっても「音」だから抽象性が高く、性格を捉えるやり方は具体的では無い。作曲家の偉大な魂に触れた実感はあっても、音楽を通じて一体感を...等と言うのがせいぜいだ。いつでも自分は自分、他人は他人なのだ。

ところが、オペラには明確に「役」があり、偉大な歌手はまさにその人になる。作曲家が思いを馳せたであろう「人間」になるのである。映画の中で主人公を演じる役者を、「その人」だと思って見るのと同じだ。逆にそうした事が、歌った人の性格や人生観に影響して来るだろう。

それに声ははっきりとした個性を持つ。器楽である人の演奏を聴いた事があるからと言って、誰の演奏か聞き分けるのは専門家でも至難の技だ。例えそれが名人上手であってもである。しかし、人の声は間違うのが難しいだろう。似た声はあるにしても、多少素養のある人ならカレーラス、ドミンゴ、パヴァロッティの違いは分かるだろう。一緒に歌うと紛れますがね。声自体に性格があるのだ。コロラトゥーラ、スピント、ドラマティーコ等の区分けは声では当たり前だが、器楽で考えられるだろうか?「俺のファゴットはスピントだぜ」「私の笛はコロラトゥーラよ」なんて会話は成立しない。

こうした事から声には器楽以上に、演技者としての「役回り」が大事になってくる。ドミンゴの様に何でも歌える人は珍しいが、その彼にしても「ローエングリン」の白鳥の騎士はさすがに失敗だと言われている(BP.のH.トローク氏の言でも)。ヘルデンテナーの領域は、イタリアオペラのそれとは大分違うと言う事だ。確かに、パヴァロッティのワグナー...も興味津々ではある。しかし役柄によっては、上手いだけではどうしようも無い事があるのだ。

一例を挙げよう。フィッシャー・ディスカウは素晴らしい歌手だが、椿姫のジェルモンは声が若すぎて「父親」のイメージがどうしても感じられなかった。また、舞台である以上「見た目」も評価の対象になる。ジェシー・ノーマンは優れた歌手かも知れないが、オペラでの活躍は難しいだろう。器楽より守備範囲を絞らざるを得ないのである。逆に、器楽なら「あの人の音はブラームスには合わない」と言った所で、上手に弾けばそれなりに納得も評価も得られる。

この守備範囲の差が、逆に「当たった」時の「観客の熱狂」に結び付くのでは無いだろうか。まさにエリートたりうるのだ。そして、これこそが「スター性」なのだ。また端役、合唱であっても、そこには生きた人間が演じられなければ「学芸会」になってしまう。指揮の吉田顕は、そうしたポイントを上手く突いていた。さすがは歌手出身。今回の椿姫公演は、オケも合唱もアマチュアとのコラボレーションとしては、かなりの出来だったと言って良い。それは歌手のこうした「性格」に乗せられてしまう部分が大きい。昔、オペラの練習をやっていてオケ(プロのですよ)の出来が酷い時に、あるヴェテランのヴァイオリン奏者が「歌が入ればちゃんと出来るのさ」と言っていた事がある。その時は「?」だったが、果たしてそうなった時は呆れた。そう言う世界でもある。

今回タイトルロールは安達さおりさんが歌ったのだが、当日のステージでのオケ、バンダとの合唱合わせの時に沢崎恵美さん(今回は制作なのだが歌手でもある)が合唱と合唱をつなぐ箇所で、本番準備中の安達さんの代わりヴィオレッタを歌った。もちろん本気で歌ってはいないのだが、それなりに歌わなければ練習にはならない。皆の世話をしつつなので大変だが、実に上手くさばき、楽しいプローベになった。いい歌手ならではの事である。感心(感動と言ってもいいか)してしまった。吉田氏とも、こうした人がいてくれる仕合わせを話した。この二人の声の質、持ち味など思っていて、こんな事を考えてしまったのだ。打上げで沢崎さんと話をして、更にその感を深めたのである。どっちも素敵だと言う事だ。

それに、二人には共通点がある。それは「舞台映え」する事だ。これこそがスター性。オペラは特にそうだが。歌手は全身を晒して、役柄に成り切り、舞台と言う限られた空間を別な次元に移し代える事こそ「本当の役割」なのだと思う。ある意味で器楽奏者は能力を切り売りしている感じがあるのだが、歌手は常に出し切らないと、それに耐えられないのでは無いだろうか。(演奏家として)寿命が短いのは、その所為では無いだろうか。リート中心の歌手の方が長く続くのは、少しそのあたりが楽なのではなかろうか。主役より脇役の方が長く続けられるのも同根か。フレーニの様に今でもかくしゃくとした人もいるが、アリアの夕べの様な事の方が多いのは言うまでも無い。

伴奏していても、良い歌手(有名ではなくとも)は「この人の為に、最高の音を出そう」と思わせてくれるのだ。実際、ドイツで永らく歌っていらしたテノール歌手の前多孝一さんも言っておられたが、日本の歌の水準は高いのだ。好き嫌いはあるだろうが、オペラが上演される機会が増えて、この素晴らしい舞台芸術がもっと理解されて欲しいと思う。私がF・ヘンカー氏に教えを受けた時はオペラを知らなくて、まったく今から思えば大事な機会を活かし切れなかったなあ、と残念でならない。比べれば、今は実に良い時代だ。

充分に論は尽くせないが、本日はこの辺でお終い!

2003年8月23日、森のホールの私の演奏会にドイツからソプラノのアンティエ・クラウゼさんを招きます。興味のある人は御来場下さい。

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