我々の楽器は、基本的に誰かと合奏をする事でしか生きる場所がありません。ピアノ、オルガンなどの楽器なら一人で完結するので、少し感覚が違います。それでも他の楽器と合奏すると、ソロも違って来ます。
人はどうして合奏をしたいのでしょうか?
理屈を抜きにして、合奏をする事は本当に楽しい。その事が一番の理由でしょうね。一緒に音が出るだけでも楽しい気持ちは、私の経験でもあるので分かります。音が合った時、リズムが合った折に何か言葉では表わせない感動があります。オーケストラの様な大きな編成の曲でも、そうした喜びはあります。大作曲家の作品と巡り合うのも素晴らしい体験だし、良い演奏家と演奏するのも素敵です。本当に、そうした事が汲めども尽きぬ世界ですからね。でも、そう言う交響曲で知られた大作曲家も、色々なジャンルで曲を書いている事実は重要です。
面白い事にオーケストラは嫌な人や、嫌いな人がいても続ける事が出来ます。一例ですが、ある有名なクラリネット奏者とファゴット奏者がグリークのピアノ協奏曲で冒頭に出てくるユニゾンを全く音程が合わないのに平気で吹いているのを見て愕然としました。私、2番吹いてましたので目の当たりにした訳です。当時仲が良くなかったと言う事は聞いていたんだけれど、まさか本番で...。要するに合わせたく無かったんですね。これはプロだけの話ではありません。アマオケでも仲が悪い人がいるけど、仕方なくやっている情況は思い当たるのでは無いでしょうか?オケは人間関係が意外に希薄なのです。
ところが、アンサンブル、特に指揮者のいない小編成のものは仲が悪いとやっていられません。「カルテットは壊れてっと」と言う言葉があるくらい。仲が良かったのに始めて見たら...と言う訳です。
小編成のアンサンブルの場合、音楽と同時に「その人の事が好きかどうか」は常に問題になります。何故でしょう。私は、お互いの音楽性と同時に「『人生そのもの』を見つめ合う事になる」からだと思っています。その人の大事なものが音楽の中で表出されるには、音を出している時間が長くなくてはなりません。逆説的に言えば、そうすると本性も見えてしまうんです。また、指揮者がいないので、話し合って音楽を創る事になれば「言いたい事を言う場合の危険性」も増えて来ます。指揮者と言う共通の敵がいなければ、共闘を組むのは難しいんです。この人なら、と思っても中々難しいものです。
本当に好きな人達と組めれば幸せです。特に、二重奏などは相手に「恋に似たもの("恋"そのものでは無いですよ、お間違い無き様に)」を感じなければ出来るものではありません(更に念の為ですが、相手が男でも、女でもです)。お互いに、相手の言う事をもっともだと思わないと成立しないからです。三重奏でも変りは無く、そうした相手を二人見付けるのは難しい。それに人柄がいくら好きでも、音楽的に合うかどうかは続けてみないと分かりません。おかしなもので、嫌な奴と最初思っても、その人の音楽が好きだと終いには大体好きになってしまいますね。そうすれば音楽の現場以外でも楽しい時間が過ごせます。もっとも、どちらかが音楽をやめてしまえばそれで終わりかなあ。だから相手が足を洗って、お互いに演奏する場が変って、それで付き合わなくなった人は少なくありません。接点で音楽が重要な働きをしているから、当然と言えば当然ですね。結構努力もいるんです。
究極的に言うなら、「最高のアンサンブルは人生をも共有する("ある程度"はですよ。異性同士なら結婚する手もありますが)」と私は思っています。ただし、これは音楽を(稼ぐ為と言う単純な意味で)生業としている場合は含みません。そうした仕事ならむしろ普段は離れた方がうまくいきます。そうでは無く、人生の楽しみとして音楽を考えるなら、と言う事です。アマチュアに取っては当たり前ですが、とは言え、プロでも人生の楽しみとして音楽をする場合は別ですよ。
相手のやる事を尊敬し受け入れる、そして相手もまたそうしてくれる、理想の姿ですが...。現実はなかなかうまくいかない所があります。それでも、そうした相手と巡り合い、その人の音楽が素直に何の抵抗も無く自分の中に入って来た時、カタルシスと呼べるほどの感覚が身体を巡る時があります。頭が熱くなり、手足がしびれ、何ともいえぬ幸福感です。恍惚と言っても良い。
単に(音を出すと言う意味での)演奏する楽しみだけで音楽をするのではなく、アンサンブルを通じて人生の深みにまで達する事を望むなら必要な事だと思っています。普通はそこまで思って演奏しようとは思わないでしょう。当然です、私だって何時も思ってはいないもの。滅多に無いから良いんです。そうした相手を見付けられれば、全くもって幸せです。それこそ"魅惑の宵"ですよ。
"Once you have found her, never let her go!" "Once you have found him, never let him go!"
でも、どうして音楽は我々の人生に取って必要になったのでしょう。無くても良い、と思えばそんなものです。「芸術」とはある意味で余裕の産物でもあるので、生きるのに不可欠ではありません。しかし、どうして心に深く突き刺さるのでしょう。一生を通じてやりたいと思うのでしょう。確実な答えは、無いだろうし人によって違うとは思います。私にも分からない所が沢山。でも、人との関り合いの中で熟成されたものは、人との関係の中に答えがある様な気がしています。言葉を使わずに人生の感動を共有する事の素晴らしさです(ここに言葉が入る歌曲やオペラになるとまた違うのですが、それはまた別の機会に)。言葉では理解出来ない、人の根源的な欲求、希望、夢、感情、知性etc.それが理解出来てしまう。そうした音楽の素晴らしさは、アンサンブルを通じて分かる気がするのです。私は常にそうした相手を求めずにはいられないのです。そうしないとモチヴェーションが保てません。普段は無意識下に押し込められた「もの」が、ある高みに達した時に頭をもたげて来るのではないでしょうか。つまり、それは「自分達だけの世界」。他にどんなに立派な音楽家がいようと、その中でこそ「自分は生きられる」そうした世界です。
常に芸術は高い精神性を求め、豊かな感情と知性を求める。時には日常の平和を乱してでも必要なものを希求する。その深みにはまった者は、それを拒絶出来ないのです。それは必ずしも世間的な幸せに通じない事もあるのに、辛い思いをして、ジタバタして苦しんでしまう。でも何故なんでしょう、そうまでしないといられなくなる「何か」って。
思うに、我々はそれを通じて同胞(はらから)を求めているのでは無いでしょうか?遠い人類のDNAの記憶が揺り起こされ、DNAを共有する同胞を求め、己の生きている意味をその中に見出そうとする営みこそが芸術であり、音楽もまたそのひとつと思わざるを得ないのです。芸術はまさに人の営みそのものだから、残って来たのでしょう。延々と続く人間の歴史の中で、文明の進歩にも左右されない「根源的な事柄」に直結しているからだと思います。それは人間であれば必ず感じる事、でも言葉にできない何か。だから、時間と距離を超越して存在出来る。
オペラやオーケストラの素晴らしさは、人間の創り上げたそうした文化の集大成のひとつだと言う点です。しかし、オペラもオーケストラも巨大な建造物と同じで、個人(客も演奏者も)はスターを除けば多くのファクターのひとつに過ぎず、そうした中に心の通じ合ったほのかな幸せは見出せません(もちろん別な楽しさがあるから必要ではあるのですが)。だから演奏家が個人に帰する時、小さなアンサンブルを通じて得られる満足感こそが、大事だと思うのです。そして、そこには先に述べた様に、うまく行けば最高の悦びがあります。レパートリーを作り、新しい曲に取り組み、音楽を一緒に深めて行く幸せがあります。どうして私がアンサンブルをしたいかは、大袈裟にも思えますがこうした理由に寄ると思えるのです。皆さんは如何にお考えでしょうか。
かなり強引な論理を展開しているのかも知れませんし、言葉が常に足りないのですが、こんな見方はいかがでしょうか。