暴論、指揮(者)考

音楽を言葉で伝えるのは、心を伝える事と同様に難しい

指揮をする事とは何だろうか?あたかもオーケストラを自分の楽器の様に自在に操り、己の音楽を世に問う独裁者の様な存在だろうか。A director is a Dictator. との言葉もある。確かに、ある面でそうした所が無いと務まらない事でもある。ところで、指揮者にはどうやってなるのだろうか。

ドイツのオペラの場合、練習のピアノ伴奏(コレペテトゥア)からキャリアが始まる。その後3〜5段階ほどの指揮者(カペルマイスター)を経てシェフになる。オペラが好きで、オーケストラが好きな人が徒弟制度の中で成長するのだ。カラヤンもウルムからキャリアを始めた。勿論、才能で違うのだけれど。コンクールで優勝したり、交響楽団などでキャリアがあり、一足飛びにシェフになる有名指揮者は別だ。交響楽団でも、練習の副指揮者などの経験を積んで一人前になる。ところが今はピアノをやって、指揮科に入って出るとすぐ指揮者。アマオケで偉そうにしている人の多くはそうだろう。プロのオケで経験を積むチャンスも、今は多くはないからだ。今はドイツでも、ピアノしかやらずに(ピアニストにもなれないので)上記のコースに入り、あたかもピアノの様にオーケストラを扱おうとする傾向が強くなっている。オーケストラ知らずの指揮者が増えているのだ。だからオケにも歌手にも、充分に歌わせないテンポを取ったりする。大体は速すぎるのだ。

しかし、指揮者は音が出せない。その代わり、振り違えても聴衆はほとんど気が付かない。良い演奏なら自分の手柄、悪ければオーケストラの責任になる。しかし、それで良いのだろうか?大体のプロのオケマンは大体の指揮者に対して不信感と敵対心を持っている。それは、先にも述べた様に演奏者に満足を与えず、能力を引き出してもいないケースが多いからだ。私も仕事をしていて「せめて分かる様に棒が振れないかなあ」と自分も言ったし、まわりの人達も常に言っていた。とは言うものの、指揮者が無いと短い時間で仕事にならないのも確かなのだ。

それに、聴衆は常にスターを求めお金を払う。聴衆の中でオーケストラの奏者の名前、更にはその演奏まで知っている人はほとんどいないだろう。楽器を演奏する人なら、そこまで知ろうとするだろうが一般には難しい。残念ながら、指揮者とソリストは聴衆を呼び込む為に必要なものなのだ。 しかし、これはプロの世界の話。この話も始めると尽きないのだが本論はこうした事の為のものでは無い。私が指揮をする事、アマチュアにとっての指揮(者)に付いて述べたいと思う。

先にトレーナーに付いて述べたのだが、指揮者と言うものは実はトレーナーも兼ねて一人前だ。プロのオケなら放って置いてもそれなりの事をするのだから、トレーナーとしての役目は客演の場合、普通は必要無い。常任ならデュトアの様にオーケストラを創り直す人もいる。しかし、専門家相手と、アマチュア相手ではやる事は全く違って来る。

アマチュアとプロと言っても演奏家のやる事に違いは無い。上手に出来るか、出来ないかはある。アマはやりたい気持ちがあり過ぎて、その為に何が必要か考える時間と経験が足りないし、プロも仕事としてのやり方に慣れて、経験はあっても新鮮な気持ちで音楽に取り組む時間が足りない気がする。勿論、暴論である。そうでは無い人も多くいるとは思う。でも、仕事になると楽しんでばかりはいられない事は、理解出来るだろう。私は両方の良いところを上手くミクスチュアした所に、何かを見ている。私の立場が特殊なのかも知れない。

私は指揮する場合、「どこをどうしたら普通に聴こえるか?」から始める事にしている。トレーナーでやる事から始める場合と同じだ。しかしトレーナーと違うのは、最初から最後まで自分で決められる事だ。テンポも音楽の作り方も決められるのだから、トレーニングとしても一段上の事が出来る。

指揮者とトレーナーで一番違うのは、自分の夢を語れる事だろう。自分の理想の音楽を語れるという事だ。ただし自分が音を出す訳では無いから、演奏者の心の中にある夢を引きだし、自分の理想を重ねて行く事が目標になる。演奏者一人一人の夢を汲み取る所から始まるのかも知れない。アマチュア演奏家から良いものを引き出すには、仲間として受け入れ、受け入れられる関係が大事だと思う(相手にもよるけれど)。大分前の事だが、広島のジュネスを指揮する(結構有名な)指揮者が「前に来た時に言った事を僕も覚えてない」なんて酷い事を言っていた。許せないと思った。音楽家であるより、社会人として問題だろう。アマチュアを一段下に見て音楽をする仲間として見ていないから、そうした事が言えるのだ。勿論、色々なオケを振らないと商売にならないのだから、全てでそんな事は出来ないだろう。しかし、音楽をするとの括りを取れば、音楽家が偉いなどとはとても言えない。

前にパイパーズに書いた事だが、オペラは同じ場所で同じメンツでじっくり出来る土着のよさがある。交響楽団と指揮者は相手を変え、場所を変えて仕事にして行く。私がオペラのオケに惹かれるのは、そうした事もあるのだ。だから私は自分のまわりに集まってくれる人達を大事に思うし、音楽と言う底なし沼に引込まれている仲間だと考えている。そうしてお互いに影響しつつ、長いスパンで時間をかけて創り上げる音楽の場を貴重だとも思っている。

さて、そうした仲間と共に演奏する場が「管楽合奏は楽しい会?」である。ここまで色々と書いて来たが、私には指揮者としてそれなりの事が出来ているのだろうか。実践の場で仲間の表情を見ながら、何時も自問自答している。一度の演奏会で最高の事が出来るとは思わない。だから何度も同じ曲を演目にかける事で、より良い演奏を目指す事が大事だと考えている。管楽の名曲は多いとは言えないからでもあるし、歌舞伎十八番の様なレパートリーも必要だからだ。プロは飽きるほど同じ曲をやる事で、実は多くの事を学んでいる。それは文学や美術でも、自分が変ると「同じもの」のはずなのに、見え方も変るし新しい発見もあるのと似ている。

このくらいにして置こう。残念ながら、いくら書いても際限のない事だから。

 

トップページ