トレーナーはつらいよ

 

音楽を言葉で伝えるのは、心を伝える事と同様に難しい

音楽を伝えると言っても色々な場面があるので、ここではトレーニングをする時に感じる事、思う事を書こうと思います。題して「トレーナーはつらいよ」。

音楽を表わす言葉(楽語を除く)はかなりあるでしょう、数えた事もないし、したいとも思いませんが。例えば音色に関する表現を取り上げても、多様な言い方があります。良い音、悪い音、柔かい音、堅い音、強い音、優しい音etc.etc.。ある点ではみんなが共通した認識を持てる事もあるけれど、それでも違って感じる所が多くあるでしょう。柔かい音、と聞いてあなたはどんな音を思いますか?

なるべく人によって解釈が違わない様に言葉を選ばないと、言われた方は迷ってしまい、ばらばらになってしまいます。従って、トレーニングをする時には、こうした曖昧な表現を避けないといけません(つい言ってしまう事はあるけれど)。更に言えば、その場で改善の見られないであろう事を言うのも問題です(ただし、長期に渡ってそうした立場を維持出来る場合は、この限りではありません)。

前提として置かないといけないのは、当たり前の事だけれど、悪い演奏をしたい(している)と思っている人はいない事です。トレーニングを始めると、最初に戻って来るのは反発の気持ちです。自分は、こんなに良い事をしている(しようとしている)のに、何を言いやがる、ってね。それが分かっているから、トレーニングを引き受けるには「覚悟」が要ります。それは憎まれ役になる覚悟です。指揮者はまだ良い。本番を振るのだから最終的な決定権が与えられています。しかし、トレーナーはそうはいかない。短い時間に成果を上げないといけないし、指揮者と違い(嫌でも指揮者の意向を無視出来ない)自ずと制約があります。棒だって指揮者より分かり易く降らないといけない。その上、そこにいる人達に2時間ほどで「今日は少し上手くなった」と思ってもらえないと仕方がありません。その為には嫌な事を言うと思われても、恨まれると思っても(自分の思う)言うべき事だけは言わないといけない、指摘しないといけない。そしてその間は自分の為など考えず、相手と音楽の事だけを考えるんです。

そう思えないなら引き受ける意味が無い。いい加減に時を過ごす事も出来ない訳では無いけれど、それでは自分が許せない。特にアマチュアの場合、技術的なバラつきが当然の様にありますから一律に分かって貰える訳でもありません。考え方も楽しみ方も雑多です。人と言うものは、何時でもそうですが、自分が思っている事を否定されて面白い訳はありません。10代、20代の若い人でも自尊心があるのは、これも当たり前です。初心者だって上級者だって、変りはありません。ご多分に漏れず私だってそうです。しかし、単に仲良くしたいなら当たらず触らず、適当に誉めながら進めれば良いのでしょうが、それでは自分がスコアを見ながらその場にいる必要は無いのです。だから、敢えて自尊心を傷付ける事も視野に入れて進める事もあります。

また、自分がやっている事の意味を理解して貰うに、それなりの努力も欠かせません。一緒に演奏するなら、自分の音も音楽も聴いて貰えるけれど、棒からは音が出せないので言葉の勝負になります。これって結構キツいんです。人によっては「どうして、その音を長く(短く)しないといけないんですか?」なんて訊く人もいる。私がそう思ったから(としか答えられない事もあるんだけどね)、では相手は絶対に納得しません。私だって若い時はそうでした。それに分かっているつもりで生意気な事を言って、今になってみんなにウソを言っちゃったなあ、と後悔している事も沢山。

音楽の9割は言葉で説明出来るとは思っていますが、その為にはその事ばかり考える時間も要ります。怒る訳にもいかない、怒鳴る訳にもいかない忍耐の時間でもあるんです(学生時代はやりましたけど)。何とか分かって貰おうと言葉を選んで、アタマはフル回転です。限度は2時間かなあ。終いには音が高いか低いかも分からないほど消耗してしまいます。加えて、一旦言ってしまえば責任が生じますから、その後がまた大変です。「いやあ、悪い悪い」で許して貰えるキャラクターでも無いですしね。そして本番が終わるまで、巧く行くのだろうか、失敗だったら如何しようと胃が縮む思いです。それでも結果が良ければ演奏会の後には喜ぶ顔が見られて、美味い酒が飲めますし、それが一番の報いなんです。

夢の様な事を言わない、と決めています。誰でも分かる様なリズムの事、音の意味が分かる様なフレーズの事、そして音の長さから始めます。それだってみんなの反発は必至です。結局、音楽は個人に帰結するものなので、夢の部分は一人一人の心の中にあります。トレーニングはそれを表現するのに必要なサポートに徹するべきだと思っているんです。だから、みんなが気が付かないだろうと思える場所や、大事な部分を見つけ出し、その為に必要な練習手段をその場(前もって、と言う事もあるけれど、やってみないと分からない事が多い)で考えるのです。しかも絶対にこれしか無い、なんて答えも無いのです。だから辛い。音楽自体が限りの無い世界で、賽の河原の石積みの様なものですから。それでも、やらずにはいられない素晴らしい世界でもありますしね。

そうした意味では、放って置いてもそれなりの事をやってしまうプロは楽です。棒を振る事はメトロノームになる事と決めれば、(面白いかどうかは別にして)自分が「やらねばならぬ事」はなくなりますから。もっとも、プロの中でやるのは大変ですよ。大体同じ楽器同士では仲良く無いですから。専門家は楊枝の先の様な事が我慢出来ない人種でもありますからね(苦笑)。話が逸れました。戻しましょう。

トレーニングを受ける側にも同様な覚悟が無ければ、その時間全体が誰の為にもならなくなります。レッスンの時もそうですが、私は相手が今言っても分からなくて混乱するかな、と思える事でも話す事にしています。相手の気持ちを忖度して手加減はしたくないんです。それは一生懸命に相手と向き合う為にも必要だと思うからです。分からなかったら分かって貰えるまでやります。大事だと思う事は、何度でも言いますから「またですか」と、嫌がられてもいるでしょう。それでもやめる訳にはいかない。そして、そうした事を言わなくて済む様になって、初めて次の段階もあるし、お互いに「演奏する事の意味」に近付いて行ける気がするからです。

言い足りない事はあるけれど、この辺にしておきましょう。

トップページへ