菅原眸先生と1998年5月の演奏会の後で 2000年松戸森のホールにおいて |
訃報が知らされたのは25日の夕刻に先生が面倒を見ていらしたハルモニア合奏団の代表からだった。享年88歳と言う事で、1月10日に米寿を迎えられたばかりだった。所謂平均寿命より長生きされたので、少し慰められた感じだった。 既に書いた事だが、私が曲がりなりにも演奏家になれたのは、先生あっての事だ。最近は余りお会いする機会もなく、体調を崩されたり、はたまた復活されたりと言う話は伝わって来ていた。昨年のハルモニア合奏団の演奏会では、モーツァルトの388のセレナードを矍鑠と振っておられたと聞き、お元気なのだと安心していたし、差し上げた年賀状にもその旨を認めたばかりだった。急な事に驚くばかり。 残念ながら生き物であれば、こうした事は免れない。今までもあったし、コレからも避けられないだろう。いずれ私もそちらに行く事は間違い無いので、先生に倣って始めた管楽合奏の会を続け、あちらでお会いした折りに恥ずかしく無い結果を残したいと考えている。 先生からは管楽合奏は楽しい会?の50回めの演奏会をに対して戴いたメールの中に「貴君の会も50回を迎えられたとのこと、ご苦労様でしたね。良い仲間に囲まれて余り陽の目を見ない管楽合奏に力を注ぐ貴重な演奏集団としての「楽しい会?」はもっと評価されるべきだ!と感じております。」と書いて下さったのは、この上ない喜びでした。 私が管楽合奏に目覚めたのは、東京木管合奏団のグノーの小交響曲を聴いてでした。次回の楽しい会で 久し振りにこれを取り上げますが、先生の思いを引き継ぐものになるでしょうか。次の演奏会は菅原先生に捧げたいと考えております。 お世話になった、影響を受けた方々が次々に鬼籍に入られるのは寂しい事ではあるけれど、普遍の出来事として受け止め、精一杯生きる事が我々に出来る全てだろう。 菅原先生、遠からずそちらに参るまでお待ち下さい。何か面白い話を携えてお目に掛かりたいと存じております。これまで有り難うございました。 以下は以前に菅原先生への感謝を込めて認めた文章です。 菅原先生のこと 菅原先生にお会いしてから何年になるでしょう。19歳の時ですから30年(2004年現在)を過ぎてしまいました。初めは、もちろん今日の様なお付き合いになる事など想像もしていませんでした。 私がこの世界に入ったのには、先生の影響はもちろん大きいのです。先生は藝大に行かれる前に、法政の経済に3年次までいらっしゃいました。つまり大学の先輩でもあられる訳です。先輩にN響のファゴット奏者がおられるなど、考えても居ませんでした。 初めてお会いしたのは、先生がデトモルト(ドイツ中北部ハノーファー近く)留学を終えられた時でした。たまたまオケの友人が奥様(菅原早苗先生、仲間の沢田直人君の師匠です)のフルートの生徒で、かなり無理矢理連れて行かれました。当時先生はトレードマークの髭はありましたが、眼鏡はかけておられず、鋭い目(遠視の眼鏡で、今は優しく見える)で私を見られたのを思い出します。金のない私はレッスンにも満足に通えず、そのくせ別科を受ける時など、大事な場面では頼るのだから、それはもう迷惑な生徒でした。しかし、そんな私を見捨てずに面倒見て下さり、仕事の面倒も随分見て下さいました。細かい事を話すと、きりがありません。 最近は私の演奏会で解説や、指揮もお願いしています。私自身、最初お目に掛かった時の先生の年齢を遙かに超えてしまいましたが、こうした師弟の関係は一生ものですから、宝みたいなものです。自分も生徒に、後輩に、仲間に先生がして下さった様に出来ればと思っています。 こうした事は私に限らず、先生の人柄に接した人たちは皆感じていると思います。もちろん尊敬はしているのですが、それより何より「菅原先生が好き」なのです。これは希有の事と言って良いのでは無いでしょうか。私は尊敬されるに程遠い人間ですが、みんなに「好き」になって欲しいと願っています・・・・菅原先生の様に。無理かなあ...。 ちょっといい加減(悪口に非ず、「程良き」と言う意味で)でダンディーな「ケセラー」forever!
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