最近(1999年)NHKが「フジコ」との題で、或るピアノ奏者にフォーカスした番組を放送しました。

これは大月フジ子と言うピアノ奏者の話ですが、それ自体に文句を言うつもりは無いのです。が、彼女の言いぐさが気に入らない。

「一寸くらい音が違ったって良いのよ、機械じゃないんだから。自分にしか出来ないリストを弾くんだから」と言ったのです。文言は多少違うかも知れませんが、内容は違っていないはずです。

「機械じゃ無いんだから、間違う事もある」なら問題は無い。しかし、彼女のせりふには作曲者に対する畏敬が感じられませんでした。まあ、松平頼則(よりつね)氏を取り上げた時に「やらせ」をしたと言われるNHKですから、モンタージュしたかも知れませんが。それにしても、解せない発言です。

我々は作曲家の作品を演奏して楽しむ立場の人間です。もちろん作品を生かすも殺すも我々にかかるのだ、と言う自負はあるでしょう。しかし、元が無ければ存在自体意味が無くなるのも確かです。だから書いてある音符の意味を考え、間違わない様に努力もするのです。

ヴァイオリニストのナタン・ミルシテインがシカゴ交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲をしたとき指揮者のフリッツ・ライナーが「この曲は、臭いな」と言ったそうです。その時、ミルシテインはライナーに一言" Write better one ! "と言ったそうです。このパンチは効いたでしょう。その後ライナー(作曲もした)が立派なヴァイオリン協奏曲を書いたとも聞きませんよね。

先日、宮崎国際音楽祭でのスターンが日本、韓国、中国の若いピアノトリオをレッスンする番組がありました。スターンの「楽譜を読め、作曲家を知れ。意味の無い音符を書いてはいない」と言う姿勢は全く当然であり、納得がいくものでした。そこには音楽、作曲者への畏敬があったからです。特に、韓国のトリオは酷かった。音楽をファッションと考えているとしか思えませんでした。(ついでながら、この番組での翻訳は酷い。意訳が過ぎる。)見ていない人は再放送を見ましょう。啓発される事は間違いありませんから。

好き嫌いは別として、演奏家は過去の大作曲家はもちろん、小作曲家中作曲家にも感謝しつつ楽しむべきでしょう。それでも、つい言ってしまう事もありますけど(^_^;)。

さて、アマチュア演奏家も気付かずにやっている傲慢が数々あります。数例挙げましょうか。

その1.「いい加減なアーティキュレーション」と言えば、身に覚えのある人は多く居るでしょう。別にジュピターやベートーヴェンの4番の終楽章の16分音符が切れない、なんて話では無いのです。技術が及ばず吹けない事は仕方が無いのです。そうでは無く、何となく切るべき所を繋げたり、また逆だったりと言う事です。要は不注意。

その2.Pやf無視。まあ、本当にやるには大変な技術が必要ですけど。「音がでかい」は褒め言葉とは限りません。私も昔は勝手な事をしたものです。

(以下2003年2月27日追捕)昔、東フィルにいらした井料さんと、あるオーケストラでベートーヴェンの5番をした時です。私は1番を吹いていました。生意気盛りで、元気一杯で吹いていた頃です。4楽章279小節目は「P」なんですが、結構大きく吹いていました。それまでも同じ様に吹いていたし、誰かに指摘された事もありませんでした。井料さんに「大きく吹きたくなる所ではあるけれど、pなんだよね」と言われ、自分の未熟さ注意欠如が恥ずかしくて、反応出来なくなってしまった事があります。きっと不満げな顔に見えたでしょう。時折思い出して「いい薬」にしています。

その3.安易にあれもやった、これもやったと言う事。これを聞くと「え、君あんな難しい曲やったの?」と思わず尊敬しそうになります。ま、プロでもそう言う人は居ますけど。しかし、やらしてみると「やった」とは楽譜を前にしただけの事か、が多いんだなあ。

何れも技術の事だけ言っているわけでは無いのです。プロの真似をしろと言っているのでもない。しかし、出来るだけの事をせず、考える事も半端ならアマチュアは若旦那のお遊びに過ぎないと断じて良いと思うのです。

これは全て自分の辿った道でもあります。だからこそ良く分かるのです。

それから、非常にポピュラーな名曲で固定観念を排除して、演奏する事は難しいのです。どうしても耳から入っている(聴いた事がある、またはいつも聴いている)音が邪魔になります。そう言う意味でも、かつて学校の音楽で管弦楽の名曲に歌詞を付けて歌わされたのは最悪でした。「魔弾の射手」の主題を『秋の夜半の〜』とどうしても聞こえてしまうのが、耐えられない時があります。第九が『晴れたる青空〜』と思わされて、こんな迷惑は無い。そこまでで無くとも、かつて初めて接した演奏が最上のものと考えてしまうのは「刷り込み」以外の何ものでもありません。

そして、それを元に議論をするのでは行き着く先がありません。

ほとんどの事は楽譜に書いてあるのです。この単純な真実を忘れてはいけません。なるほど、楽譜は良く出来てはいても完璧ではありません。それも確か。しかし、それだからこそ、解釈の違いを論ずる土俵も出来るのです。副次的に時代背景、人となりを知る事も大事だし、様式も考えなくてはいけませんが、情報を楽譜に求めるなら、さりげないスタカートの有無がどの様に音楽を変えるか、ただ一つのテヌートが如何に大切か分かります。その為には、自分の楽器で色々な事が出来る様にならないといけません。練習しましょう。そして、楽譜を深く読み、もっと音楽が楽しくなる様にしましょう。

ここでは、アマチュアの事を書きましたが、なーにプロはアマチュアのなれの果て、やはり傲慢なもんです。それは、またの機会に。

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