どうして人は演奏(表現)をしようとするのでしょう?
これは、演奏のみならず「Performance」を行う人に与えられた命題です。この事を考えること無しに、この行為を続けていくと「自分は何をしようとしているのか?」「どこに行こうとしているのか?」と言った自問に押しつぶされてしまいます。これはプロだからではありません。アマチュアでも音楽家なら同じ事です。
演奏家の幸福
作曲家は何故新奇なものを求めるのだろう、普通に調性音楽を書けば良いのに、と演奏家は思います。しかし、それでは作曲と言う行為に、自分の存在を捉える事が難しいのでしょう。
演奏家にとっても、同じ曲を演奏する時「前と同じで良いのか?」「人と同じで良いのか?」と言う疑問は感じますが、幸いな事に作曲家は多く、その膨大な作品の全てを演奏するのは不可能なほどです。それでも、歳を取りある日「自分はなんて詰まらない事をしていたのか!?」と驚く事はあるはずなのです。ある程度までは「楽しみ」だけで続けられるでしょう。しかし時間が経ち、己の来し方を見て、行く末を考えた時「自分は同じ事を繰り返していただけなのか!」と思うショックは、かなりのものです。
演奏の目的
人というものは、困った事に「他人」に認めて貰えないと苦痛に思うものなのでしょう。これは、基本的に一人では生きられないからと言う事もあるでしょうが、生きるなら人より良く行きたい欲望もあるからなのでは。私は人間のする事は結局全て「生きる為」に収斂される気がしています。そして、人は「生きる悦び」が無いといられない。
従って楽器を演奏する意味は、人により違いが出ます。「かっこよく楽器を扱って、異性にもてたい」事も、充分な理由です。否定する訳にはいかない。「振動が伝わると胃がすっとする」なんて人もいるでしょう。エレキでもドラムでも当たるを幸いやりまくるのも良いかも知れない。仲間とじゃれるのが好きでもかまいはしない。我々だって褒められるの大好きだし、人より上手く演奏しようとするもの。しかし、いわゆるクラシック音楽をどうして我々は選んだのでしょう?そして褒められたい為だけに演奏するのでしょうか?それを考えないと仕方がない。何時も一等は取れない。そして自分をそう言う目で見ると、なかなか面白い。
芸術って何?音楽って何?
芸術は生きる為に何かを求めた結果生まれたものです。私は基本的に「文学」が人と人、神との関係を言葉で描き、「絵画」はこの世では存在し得ない世界を、目で見て分かる様に示し、そして「音楽」は言葉にならない内面を語る「もの」だと考えています。異論もあるでしょう。細かいジャンル分けをすれば、こんな簡単な分類は乱暴かと、私も思います。しかし、オペラが「総合芸術」と言われるのは、そうでは無いジャンルを限るものも多いからなのです。ここでは、もちろん音楽を論じたいのです。
時間、空間、人種を越えて(西洋クラシック Classical Musics)音楽が演奏されるのは理由があるのです。クラシック音楽には「知性(頭脳)」「精神性(魂)」「感情(心)」が揃っています。もちろん、曲によって差はあります。そして、それを伝える為にタブラトゥーラから現在の楽譜が生まれ、これにより世界に広まる力を得たのです。グラフィックとしても優れたこの「記譜の仕方」が、いかに良く出来たものかはおわかりでしょう。一定の知識があれば、かなりの情報が得られます。ほとんど言葉が介在しないで「理解」に到達出来る情報です。記譜にあるイタリア語も、当初は殆ど記号として理解すれば済みます。完璧で無い所がまた良いのです。おかげで、演奏者にはかなりの自由さがある。
音楽が、神と人との会話の為に生まれた事には異論は無いでしょう。お経が時として音楽の一つの形式と考えられるのも、同様の理由です。音楽家が神の啓示の伝達者として、大事にされたのも、しかり。しかし、下々に降りてきた音楽は自ら多様性を獲得してしまい、他のジャンルと結びつくことによって「人」を描く事になったのです。
楽器と我々異教徒
機械の発達のおかげで純粋器楽が発展し、音楽も神の声を運ぶより、人の心や知性を伝えるものに変わったので、我々も宗教とは無関係に理解し楽しめるのです。音そのものに文学的意味が無い事が良かった訳です。そして、器楽演奏という我々のジャンルがあるのです。
演奏とは何か?演劇に似て、舞踊にも似て、スポーツにも近い。とは言うものの、器楽を理解するのは言葉では無いから演劇では無い。リズムに乗るが自分自身は踊らない。速くて正確な動きを要求されるが速(早)い者が勝ちでは無いからスポーツでもない。では演奏(バレエ、オペラを含む)の魅力とは?
演奏する事の意味
それは、共有する時間の質です。つまり、他の分野と違い演奏は、居合わせた誰にとっても必要な時間が完全に決まるのです。絵や文学は自分の都合で時間をやりくり出来ます。演奏はそうはいかない(作曲は別ですが)。言葉が介在する舞台は、途中からでも理解できます。ここが芝居との違いです。音楽は全体を通して初めて理解できるのですから、人々に他に無い一体感を要求するのです。しかも、クラシック音楽は同時代の人々のみならず、楽譜を通して時間と空間を越え、大作曲家に触れているのです。そして、時代が変わるとその時代に相応しい様式感でよみがえるのです。これは素晴らしい体験です。もちろん、それを何時も実感は出来ません。演奏として充実しなくては経験出来ないからです。だから、普段は同時代の人々と共有する時間を楽しむのです。しかし、究極は前者です。アマチュアでも、そんな瞬間はあるはずです(私にはあった)。それを味わうと「演奏する事」から逃げられなくなりますし、努力もできるのです。これは技術だけの問題ではありませんが、絶えざる練習無しにその瞬間を得ることは出来ません。そして、それは何時来るか分からないのです。
最後に
以上が私の基本的な演奏観です。言いたい事はまだまだ沢山あるのですが、Web上では論を尽くす事は出来ません(長文をモニターで見るのは辛いものですから)。十人十色で「私は違う」「少し違う」と異論はあるでしょう。それで良いのです。しかし、何れにせよ演奏に対する自分の考えがしっかり無ければ、それはゲームセンターで朽ち果てた、スペースインベーダーなどと同じ末路を辿る事でしょう。楽器を操る事、自体はそれほどの意味を持たないからです。現在、(アマのと言って良いかどうか)ブラスバンドやオーケストラで演奏している人達には、皆で群を成してわいわいしているだけ、の傾向がある気がします。それが悪いとは言わない。私も嫌いでは無い。でも演奏を通じて、もっと音楽自体とわいわいやって欲しいと思うのです。こんな文章を為しているのは、是非とも、演奏する意味を考えて欲しいからなのです。そして、それは常に自問自答している自分自身へも向けているのです。真の結論はまだ先の様です。