「おい」
「んー?」
「今晩、遅くなるから」
「...仕事?」
「いや、デート」
「ふーん」
休みの日だというのに兄さんはすっきりと品の良いスーツを着込んでいる。
逆に、洗いざらしのシャツと膝に穴の開いたデニム。おまけにエプロンのオプション付きの僕の姿。
なんて対照的。
僕は目の前を行き来する、スラッと背の高い抜群のスタイルの後ろ姿を、気付かれないようそっと見つめた。
今日は家に居て欲しかったのに...
...なんてね。
歳の差8つの兄は、10年前両親が死んでからずっと一人で僕を育ててくれた。
父さん母さんが死んだのは、兄さんが16、僕が8つの時。
当時、どういう経緯で兄さんが僕を育てることになったかなんて、今ではもうぼんやりとしか思い出せないけど、あまり良い想い出ではない事だけは確かだ。
両親を一度に失って、途方にくれていたはずの兄さんが、8才の僕を一人で育てるという事は並大抵の苦労ではなかったと思う。生活の為のアルバイトと慣れない家事に追われる日々。同じ歳頃の友人達が当たり前に持っていた自由な時間を求める事さえ許されなかっただろう。
僕はといえば幼さという免罪符を盾に、優しかった両親が「戻らない」不安と家に一人残される恐怖から、どうする事も出来ない駄々をこね何度も兄さんを困らせた。
その度に決して叱る訳でなく、自分こそが泣きたかっただろうに、辛抱強く抱きしめ、慰め、慈しんでくれた。
成績の良かった兄さんが大学進学を当然の様に諦め、近所の小さな会社へ就職すると決めた時、僕は自分達の置かれた現状を本当の意味で理解することになる。
...僕は、生まれて始めて自分の無知と無力さを知った。
そして...それから僕は我侭を言わない物分かりの良い弟として、兄さんと2人の生活を静かに過ごしてきた。
なによりも兄さんの幸せを望み、あの時以上に哀しませるのは嫌だったから...
あれから10年。
僕は兄さんが一人で僕を育て始めた歳をとうに越して18になり、そして今日、兄さんは26になる。
もともと優秀な兄さんは、就職した会社でかなりの良い成績を出してるらしく、中小企業だったことも幸いしてかなりの出世ぶりだ。
弟の僕が言うのもなんだけど、兄さんは背が高くて顔だってかなり「イイ男」だと思う。
昔からよくモテたし...そして今だって。
「もう...2人だけで兄さんの誕生日をすることは...無いのかな」
今日、めかし込んでイソイソと出かけたのは、彼女と2人で誕生日を祝う為だろう。
今まで、こんな何かある日は必ず自分と過ごしてくれていたのに。
出かける前、いつもみたいに僕が出かける兄さんのネクタイを選んだ。
そんな何気ないいつもの習慣が、どうしようもなく...苦しい...
兄さんに本当に好きな人が出来たんだな...と思ったら、小さな溜め息が一つ出た。
朝食の片付けを済ませ、冷蔵庫を開ける。
一瞬。息が...止まった。
そこにあるのは今晩の為に用意した、誕生日の為の料理食材。
僕の手料理だ。そんなに大袈裟な事は出来ない。それでも今までは互いの誕生日に祝う側が腕に選りをかけて精一杯のもてなしをした。
ささやかだけど、優しく満たされた時間。
「今日出かけるなら、早く言ってよ...用意しちゃったじゃんか」
心臓が痛い。
これ。どうしよう
情けないけど、見ていたくなくて、つい乱暴に冷蔵庫を閉めた。
自分の部屋へと引きこもる。
エプロンを外すのも億劫で、そのままベットへ横になった。
シン...と静かで動かない空気が部屋の中に充満する。
最近。一人になるとこうやって過ごしてる事が多い。
兄さんのいない家の中、じれったいほどゆっくり流れる時間を、ただこうやってやり過ごしている。
夢と現実の境を漂いながら、何時間も自分の部屋のベットの上で、ただ...ただ...
きっと、自分の人生から急に兄さんが消えてしまったら、僕はこのまま朽ち果てるまでここから動かないんだろうなって思う。
「にいさん...」
呼んだ言葉は、誰にも伝わらないまま空気に融けて消えていった。
ベットの下から紙袋を取り出す。
奇麗な包装紙に包まれた細長い箱。
不思議に光る黒い紙と銀のリボン。白く浮き出たデザイナーのロゴ。
中には...兄さんの好きな色の...
良い具合に手の離れていく僕に安心したのか、兄さんが彼女を家に連れてきたのは1年前。
紹介された女性は、笑顔の似合う明るく可愛い人。
結婚を前提として付き合っていると言われた。
いつからの付き合いなのか知らないけど、かなり長い付き合いなんだなって2人の間に漂う空気で解った。
隠されていた事実に心がずしりと重くなる。
裏切られた気分になってしまうのは、僕が子供だからだろうか....
...いい人なんだと思う。
僕にも気を使ってくれるし、3人で一緒に出かけることだって多い。
彼女のこれからの人生に『僕』の存在が、当然のように加えられているのだろう
。
解っている。
解っているんだ
...兄が選んだ幸福。
祝福するのが僕の役目。
どんなに心の中が醜い痛みに苛まれていようと、僕は完璧に隠してみせなくてはならない。
それが兄さんの幸せに繋がるのだから。
それでいい 。
「今日...帰って来るかな」
なんとなく呟いた。
呟いてみてゾッとする。
今まではどんなに遅くなっても兄さんが家に帰ってこないなんて事はなかったけど...今日は...帰ってこないかもしれない。
「一緒に祝いたかった...かも」
子供じみた我侭だって解ってる。
こんな毎年当たり前だった事が、当たり前じゃなくなったってことは、自分が兄さんの「一番」ではなくなってしまったって事なんだろう...
もう、兄さんは僕だけの兄さんじゃない。
ああ嫌だ。涙なんか出てくるなよ。情けない。
今ごろ何してるんだろう。
あの手で彼女の肩を抱いて...引き寄せ...そしてあの唇が...
馬鹿だ俺。
何考えてるんだ。
「兄さん...」
お願い。
おしえて
僕はいつまで兄さんの傍に居て良いの?。
ねぇ、兄さんが僕を抱きしめてくれなくなって何年経つ?
当然だけど。
こんな18にもなった弟を抱きしめる兄なんて、常識で考えてみても変だけど。
でも...僕はいつだって兄さんに抱きしめて欲しいって思ってるって...知ってた?
兄さんの一番近くに居るのは僕でありたいって。
兄さんが居てくれれば僕は何も要らないんだ。
...こんな事、一生言えないけど。
ガチャ
?
え?誰?...今何時?...
あ...もう5時...?
でも兄さんが帰ってくるには早い。誰...?
だけど、このちょっと片足だけ引きずるようなスリッパの音は...
なんで?今日は遅くなるって...
コン
ノックの音。
「いるか?」
囁くような優しい声。
「...ん」
自分でも信じられないほどそっけない返事。
「いいか?」
いつからだろう。
兄さんは僕の部屋に入る前、必ずこう言う。
そして、僕からの返事をいつまででも待っている。
「...うん」
躊躇いがちの返事を返してほんの一瞬後、静かに扉が開かれた。
「なんだ。寝てたのか?」
「...横になってただけ...」
「具合悪いのか?」
優しい茶色の瞳が心配の色を浮かべ、大きな手の平が僕の額に触れる。
変わらず兄さんは僕に甘い。ああ...駄目だよ。気持ちよすぎる...お願いだから止めて。
いつまでも触れてて欲しいその優しい手をムリヤリ引き剥がして問い掛ける。
「なんでもないよ...兄さんこそ早かったじゃん。どうしたの?」
「んー。何となくな」
多分兄さんは僕の事が気になったんだろう。
なんでそんなに優しいんだよ。
それはそれで嬉しいけど...彼女を選んだんだろ?だったら期待させないで...って言いたい。
嬉しいのに。ものすごく嬉しいのに...
僕ってやっぱり馬鹿だ。
ふと気付くと胸には見たことの無いネクタイ。今朝僕が選んだものとは違う、見覚えの無いデザイン。
「...どうしたの?それ」
解っていてわざと聞いてやる。
「ああ...今日、誕生日だからって、アイツにもらった」
躊躇いも無く返される返事。
隠さない関係。
秘めなくてもいい想い...
「ふーん」
「なんだよ」
「なんでもない...へぇ...さすが。似合うね」
嘘じゃない。
兄さんはなんでも良く似合うから...嘘じゃない。
ちょっと触れてみる。
織の細かなシルクの手触り。
手触りだけなら、僕の買ったやつのほうがいいな。
色だって、兄さんにはその色より...僕が選んだ方が似合う...
こんな事を考えてしまう自分がおかしくて....ちょっと............泣けた。
結局、僕のプレゼントは渡せずに今年の兄さんの誕生日は終わってしまった。
彼女と同じ物なんか
...渡せない。
END
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