落陽


失うといふことが
はじめて人にその意味をほんたうに知らせたなら…。

「おばあちゃん・・・ごめんなさい」
いつもは生意気盛りの孫娘が、珍しく殊勝にそう言ってきた。私は少し驚き、動かしていた掃除機を止めた。
「どうしたの?亜樹」
「・・・これ」
彼女が私に差し出したのは、思いもよらないものだった。ヒビの入った写真たて。
「これは・・・」
「ごめん、おばあちゃん、これ、おばあちゃんずっと大切にしてたのに」
差し出された写真たての中に入っていたのは、一枚の男の人の写真。セピア色で、一見して古いと分かる代物。それを見て、私は知らず、自分の表情が和んでくるのを感じた。心配げに私を見ている孫に、私はにっこり笑った。
「気にしなくていいのよ、これは・・・古いものだし、それに写真たてなんて、また変えればいいんだし」
「ん。・・・今度新しい写真たて買ってくるね」
「気にしなくていいわよ」
そう重ねて言うと、孫もやっと安心したようだった。椅子に座った私の横に、調子よく腰掛けてくる。
「ねぇ、おばあちゃん。この写真って、おじいちゃん?」
「ええ?」
そう聞き返し、私はクスリと笑ってしまった。先に旅立ってしまった夫の若い頃を思い出し、この写真とのあまりの違いを思い返したからだ。
「違うの?」
「違うわよ」
そういうと、途端に亜樹の目が輝く。年頃の少女らしい想像をしたらしい。おねだりするように小首をかしげて、亜樹が私の顔を覗き込んできた。
「ねぇ、誰の写真なの?」
「誰って・・・」
返答に困ったように笑う私に、亜樹は言葉を続ける。
「昔の恋人の写真?」
答えない私に、亜樹はなおも言い募る。
「大切な人なんでしょ?こんなずっととっておくくらいなんだから」
「そう、ねぇ・・・」
私は、ゆっくりと、かみ締めるように言った。
「大切な、人だったわね・・・」
第二次世界大戦直後。時勢はまだ混乱を極めており、街には孤児や客引きの女、怪我人などが溢れかえっていた。そんな中を、一人の少女が長く垂らした黒髪をなびかせながら走っていく。年の頃は17,8。色こそ白いが、瞳は猫のように大きく鋭く、髪もざっくらばんに切り揃えてあり、美人とは言えても、とても良家のお嬢様には見えなかった。
事実少女の家は田舎の貧しい商家で、少女はそれが嫌でこの町・・・銀座に一人出てきたのだった。自分と同じような少女達も沢山いる。暮らしに、それほど困るということはなかった。困れば、その辺のいいカモを見つけて、仲間と共に蜜をすすれば良い。まさに非行状態だった。そう、あの日までは。
走っていた少女は、やがて同年代の若者達の集団を見つけると、にっこり笑ってその輪の中に入っていった。
「何かたまってんのさ?」
「ああ、黎子、辰巳が面白いものをとってきたんだよ」
この場合のとってきた、は取ってきたではなく盗ってきた、である。見れば、輪の中に金属製のアタッシュケースがある。見れば、この場合のリーダーである辰巳がアタッシュケースを開けようと四苦八苦している。
「っくそー!あかねぇ!忌々しいぜっ」
はらだたしげにアタッシュケースを蹴る辰巳を笑いつつ、黎子と呼ばれた少女は持っていた煙草を取り出した。そして、それは黎子が煙草に火をつけた瞬間だった。
「それを乱暴に扱うな、ガキども」
あまりに意外な声に、辰巳のほかの仲間達も、そして黎子も目を上げた。逆光の中のシルエットは、かなりの高身長だ。どちらかといえば細身だが、決してなよなよしい印象はない。
「んだよっ、てめぇ」
短気な辰巳が声を上げると、声の主は落ち着き払った様子で言う。
「それは俺の物だ。返してもらおうか」
「るせえんだよっ。殴られてえのか?」
辰巳の言葉に触発されたか、好戦的な幾人かが男を囲み、じりじりと間合いを詰める。それに加わらなかった者も、面白そうに野次を飛ばしている。だが、それは3秒後に凍りついた。
ずざざざざっ
まず最初に殴り掛かった少年を、逆に男が、左手一本で叩きのめしたのだ。呆気に取られた後、他の物の頭に血が上っていく。
「・・・の野郎っ!」
その声が引き金となり、他の物が一斉に男に飛びかかった。人数的に圧倒的に不利な男が、すぐに叩きのめされるかに見えた。だが。
「・・・ひっ」
黎子の横で見物に興じていた少女が悲鳴を上げる。その場に立っていたのは、あの男のほうだった。10を超す少年達は、あっという間に男に叩きのめされてしまったのだ。
「っやぁぁぁぁぁ」
声にならない悲鳴を上げ、少女が逃げ出す。それに応じて他の者も。残ったのは、黎子だけだった。別に彼女が特別に度胸があったわけではない。単に、足が笑ってしまい動けなかったのだ。
こないで、と言おうとしたが、多分それは声にはなっていなかっただろう。顔から血の気がひいていくのがよく分かった。男が一歩近付いてくるたび、比例してリットル単位で血がどこかから流れ出ていくようだった。
「あ・・・」
男の手が挙がる。とっさに殴られる、と思い、黎子はぎゅっ、と目を瞑った。一瞬後。男の手は、黎子の手のすぐ横を通りすぎていった。恐る恐る目を開けば、自分の手もなんのことはない、煙草を叩き落とされただけだった。
「・・・え・・・?」
訳が分からず呆然とする少女に、男はにこりともせず言う。
「女は煙草なんて吸うもんじゃないな」
「な・・・なんでよ?」
問い返す少女に、男はごく自然に言い放った。
「キスした時に女の唇に煙草の味がすると、男は嫌なものだからだ」
少女は目を見開いた。そして、思わず笑ってしまった。それ以外に反応の仕方を知らなくて。“怖い”という気持ちは、いつのまにかなくなっていた。まだ引きつる筋肉を無理矢理動かし、唇を笑みの形に動かす。男は、少し意外げに眉を動かした。
「そんなに強いのに、何でそのケース、辰巳になんか取られたりしたわけ?」
「俺が盗られたわけじゃない。待ち合わせてるのを、そのガキが盗っていっただけだ」
言葉すくなに答える男に、黎子は知らず、名乗っていた。
「あたし、黎子。あなたは?」
「−お前に名乗る義務はないと思うがな」
「あら、女の子が名乗ってるのよ。そっちも教えてくれるのが義務ってものでしょ?」
男が、不可解だとでもいうように、眉間の間の皺を深くする。そういう表情は年齢以上に大人びて見えるが、よく見ればまだ20代後半に過ぎないということに、黎子はようやく気付いた。
「俺の名など、聞いてどうする?」
「だってあたし、あなたが気に入っちゃったんだもの」
黎子の言葉に、男はやっと、重い口を開いた。
「---“樹”」
そして。黎子は男にゆっくりと歩み寄った。
樹との生活は、すぐに始まったわけではなかった。だが半月後には、黎子が半ば押しかけるようにして、二人の生活が始まった。最初、樹は迷惑そうだった。無口で、表情も少なくて。怖くなかったわけじゃない。けれど、決して怖いだけではないと気付いた時、既に黎子は惹かれていた。
若さもあったかもしれない。けれど、きっとずっと後に出会っていても、黎子は樹に惹かれていただろう。樹の黎子に対する態度は、まるで年の離れた妹に対するような物だった。それは、共に住みだしてからも代わらなかった。それは黎子にとって少し不満ではあったが、事実歳は普通の兄妹以上に離れているため、仕方ないとも思った。共に住んでいれば、いつかは対等のパートナーになれるだろうと。最初は本当に無口だった樹も、少しずついろんなことを話してくれるようになった。
生まれも育ちも東京という事、母親しかいない、いわゆる私生児であるという事、兄が二人いたが、一人は事故死、一人は母親と妻と子供と、ここから少し離れた田舎で農業を営んでいるという事−
だが、彼女がある問いを発するたびに、彼はまるで貝のように口を閉ざしてしまうのだった。その問いとは、こんな単純な物だ。
「樹は、今何の仕事をしているの?」
彼は決して教えてくれはしなかった。けれど、数ヶ月一緒に住んだだけで、黎子にもなんとなく、裏の仕事であるという事が分かった。出て行く時はいつもきっちりとしたスーツ姿で、見た目には会社員だが、眼光が会社員と名乗るにはあまりに鋭い。
今思えば、樹は黎子がいざというとき決して巻き込まれないよう、配慮して話さないでおいてくれたのだろう。けれど、当時の彼女には、そんな大事な事を話してくれない樹がもどかしくてもどかしくて。何度も彼に詰め寄った。
「ねぇ、あたしの事なんだと思ってるの?一緒に住んでるんだよ?」
「---わかってる」
「あたし、樹のパートナーになりたいの。だから・・・」
「出過ぎた事を言うなっ」
最後にはそう怒られた。それでもどうしても知りたくて知りたくて。何度も何度も尋ねた。決して答えてくれないと、心のどこかで分かっていたけれど。
そして、共に住み始めてちょうど5ヶ月たった頃。黎子は、不安を胸に抱えたまま、外を眺めていた。雨は勢いを増していた。樹はまだ、帰ってこない。
「樹、遅い・・・」
二人の安アパートは風に耐え切れないかのようにひっきりなしに悲鳴を上げている。一際大きな雷が落ちた瞬間、ただでさえ頼りなかった光が途絶える。
「っひっ・・・」
小さく悲鳴を上げる。数秒後に停電だ、と理解し、慌ててロウソクを探そうと立ち上がった。その時、軋んだ音をさせて扉が開く。雨がたちまち降り込んだ音がした。雷の中に立つシルエット。それは、彼女が知ったものだった。黎子は悲鳴を飲み込んだ。
「樹、その怪我・・・!」
「---馬鹿、静かに・・・しろ」
こんな時なのに、いつものあの余裕のある笑みを浮かべ、樹が一歩、また一歩と黎子に近付いてくる。慌てて彼の側に近寄り、その手を取る。べたりと、血がついた。
「どしたの?一体、どうして・・・!!」
それが銃によるものだと知るには、彼女は裏の世界を知らなすぎた。樹が雨と血でべとべとになった手で黎子の頬を触れる。
「樹、樹、樹・・・」
「大丈夫だ・・・安心しろ」
「待ってて・・・待ってて。すぐに、止血を・・・包帯、それから・・・」
「黎子」
動転しながらも応急処置用具を取りに走ろうとする彼女の手を、力強い手が押し止める。
「いいか、よく聞け。ここにもうすぐ男が来る。お前が知らないといっても、きっと信じはしないだろう。だから、今すぐここから出るんだ」
「樹、どうして・・・なんで、こんなこと・・・」
動転のため涙が零れる黎子に、樹が珍しく微笑んだ。黎子の大好きな、けれど滅多に見せてはくれない微笑みで。
「・・・悪いな、結局、巻き込んじまって・・・」
「そんなの構わない!樹は?ねぇ、樹はどうするの?一緒に行くんでしょ?ねぇっ」
それは確認というよりは、むしろ懇願に近かったかもしれない。そんな彼女の頬を押えると、樹は唇を重ねた。心持ち震えている黎子に、樹は囁くように言う。
「一緒には逃げられない。−その代わり待ち合わせだ。町の中の・・・俺達が初めて会った場所を覚えてるだろ?」
がくがく頷く彼女に、樹は続ける。
「そこで待ち合わせだ。逃げ切れたら・・・また」
「逃げ切れたらなんてやだっ。絶対、会うんだから」
いつになく多弁な恋人に、黎子の不安は増大する。そんな彼女に、樹はただ、呟くように言う。
「---黎子」
そんな彼を説得する事が例え神であろうと不可能である事は、黎子はもう分かっていた。たった5ヶ月の恋人生活。そんな中で、彼女が学んだ事だった。
「絶対、絶対会うのよ。分かってるわよね、樹、樹!」
唇を重ねる。すぐ離れると、黎子は顔を歪めて、笑った。
「煙草の味は、しないでしょ?」
「ああ」
「・・・またあとでねっ。絶対っ」
そういって、樹が指し示す方向に黎子は駆け出した。樹の足音が後ろから聞こえてくる事だけを切に願いながら。
そして雨が止むまで。黎子は、待ち合わせ場所で、ただ、最愛の男を、待ち続けた・・・。
「おばあちゃん?」
回想にふけってしまった私に、亜樹が不振げな視線を向ける。私はゆっくりと笑った。
「何でもないわよ。ほんの昔話を、思い出してただけだから」
そういってから、私は不意に思い立って亜樹に言った。
「そうだ、亜樹」
「何?」
「その写真たて・・・やっぱり買い換えなくていいわ」
「え?」
不思議そうな孫娘を見ながら、私は微笑み、心の中で呟いた。
(あなたは新しい写真たてより、古い馴染んだもののほうがいいでしょう?ね、樹・・・)
写真の中、いつものスーツで、遥か彼方を見つめている彼に、私はそう語り掛けた。
夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と…。

END



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