【想いは風の中に】
目が覚めたら、昨日までの記憶は消えていた。 名前はアンジェリーク=リモージュ、スモルニィ女学院の2年生。 そこまでは、分かる。 けれど、ここはどこなのか、どうしてここにいるのか。 それは…全く覚えていなかった。 口々に名を呼びかけてくる人たちにも、覚えがない。 まるで自分が自分でないような、世界からたった独り隔離されたような、感覚。 そして、それに追い打ちをかけるかのように聞かされた事実には、正直目眩がした。 曰く、ここは飛空都市と呼ばれる場所で、自分は次期女王の候補である。 現在女王試験は終盤にさしかかり、ライバルであるというロザリアがあと少しで女王になる。 そして、私は…。
「それは…もちろん最初はすごく驚いたんですから」 そう言ってアンジェリークは、静かに目を閉じた。 その横顔には以前の彼女と違い、大人びた落ち着きの表情が見られる。 「私が、あのジュリアス様の婚約者だなんて」 心底おかしそうにくすくすと笑う彼女の脳裏には、その日の情景が鮮やかに浮かんでいた。 アンジェリークが記憶を失ったことを知ったジュリアスは、普段の彼からは想像できないが、血相を変えて彼女の寮に駆けつけたのだ。 何故ならその前日に、彼らは正式に婚約を交わしたばかりだったからである。 そしてアンジェリークが本当に何も覚えていないと知ったときのジュリアスの落胆ぶりは、彼を尊敬するオスカーですら失笑を禁じ得ないほどだった。 後に話を聞いたゼフェルなど、その場に居合わせなかったことを本気で悔しがっていたほどだ。 「…でもさ、今はずいぶん落ち着いちゃってるように見えるけど?」 そんなアンジェリークの隣に腰掛けたオリヴィエは、少々複雑な面持ちで言う。 それに気付いているのか、いないのか。 アンジェリークは大きく伸びをして立ち上がると、オリヴィエの目を避けるかのように彼に背を向けて話し出した。 「そうですね。…なんとなく、分かってきましたから」 爽やかな、聖地では馴染みのそよ風が彼女の頬を撫で、金の髪をあおる。 華奢な首筋が、それにつれて見え隠れする。 思わずその姿に見とれそうになる自分を、オリヴィエは押しとどめていた。 「ジュリアス様には“アンジェリーク”が必要で、“アンジェリーク”もそれを分かってたんだろうな って」「それで、アンタも“アンジェリーク”と同じ道を行くんだ」 まるで他人事のように話すアンジェリークの表情は、オリヴィエからは全く見えない。 だがオリヴィエにはもう、分かっていた。 だから、発したのは問いではなく確認の言葉。 そして同時にそれは、別れを告げるための決意の言葉でもあった。 「…ごめんなさい」 「いいんだよ。ただ、少し悔しかったけどね。今度こそって思ってたからさ」 彼女が“アンジェリーク”であった時、オリヴィエもまた、彼女に想いを寄せていた。 “アンジェリーク”もオリヴィエに想いを寄せているように見えた。 だが、オリヴィエがその想いを彼女に伝えると、彼女は悲しそうに目を伏せたのだ。 『…ごめんなさい、オリヴィエ様。私、昨日ジュリアス様と…』 その日のうちにジュリアスとアンジェリークの婚約が聖地中に伝えられ…その翌日。 目覚めた彼女は、記憶を失っていた。 チャンスだと、思わない方がおかしいだろう。 いくら“アンジェリーク”がジュリアスと婚約していても、彼女にその記憶はない。 もう一度、はじめからやり直せるのだ。 しかし、結果は…彼女もまた、同じ道を選んだ。 ならば今度こそ、別れを告げなければならないだろう。 アンジェリークに。自分の気持ちに。 「私は、アンタも“アンジェリーク”も、好きだった。愛していた」 「…はい」 「誰よりも大切だった」 「はい」 そこでオリヴィエは一度、言葉を切った。 何かを堪えるように目を伏せ…。 次に開いた瞳には、オリヴィエをじっと見つめるアンジェリークの姿が映っていた。 視線を絡ませ、捕らえ、自分も相手も逃げられないようにして。 「さよなら、だね。アンジェリーク」 「はい…」 言い切ると、オリヴィエは絡ませた視線を断ち切り、落とした。 そのまま表情を隠して立ち上がり、歩き出す。 痛みを踏みしめるように、一歩ずつ、だが確実に。 その足が、アンジェリークの脇をすり抜ける時、初めて僅かに戸惑いを見せた。 一瞬の未練。 その瞬間。 気付いたときにはアンジェリークの白い手がオリヴィエの肩にかかり、頬を何かが掠めていく――。 「…も、……が…です…」 口付けと共に囁かれた言葉は、いたずらな風に遮られ、オリヴィエの耳へは届かなかった。 だが、オリヴィエはそれを問う気にはならない。 聞いてはいけないことだろうとは、朧気ながら理解できたからだ。 そして、オリヴィエは再び、何もなかったかのように歩き始めた。 二人の距離はだんだんと離れ、やがて見えなくなった。 独り残されたアンジェリークは、強くなってきた風に身をさらす。 その指先がふと、持ち上がる。 そのまま指は、先のなごりの残る唇へと近付き、 「…海の香り…」 ぽつり、とこぼれた言葉は、やはり風にさらわれていった。
【追伸 〜愛しい貴方へ〜】
全てを知った時、これは罰なのだろうと思った。 二人の人を一度に愛し、同時に彼らから愛されてしまった“私たち”への罰だと。 以前の私は、その罰に耐えられなかった。 ジュリアス様と生涯の約束を交わしながら、オリヴィエ様の想いにも喜びを感じている自分に耐えられず…そして“私”は生まれた。 私はこの罪を繰り返してはいけなかったのだ。 全てを白紙に戻し、もう一度やり直し…けれど、私は再び同じ道を辿ってしまった。 考えてみれば、当たり前の話。 “私たち”は同じ人間なのだから。 ならば私は、終わらせなければならない。 この罪を。この罰を。
…ジュリアス様は、きっともう“アンジェリーク”なしでは生きられないのだと思う。 自惚れでもなんでもなく、多分それが事実。 あの日のジュリアス様を見て、私はそう確信した。 そして、オリヴィエ様は…。 決してオリヴィエ様の愛がジュリアス様のそれに劣っていたとは、思わない。 けれど一目見て、私はオリヴィエ様の強さを知った。 この人なら大丈夫だと、そう感じた。信じた。 多分、以前の私もこの人のこの強さに惹かれたのだろう、とも――。
私は選び、終わらせた。 それが正しいのかは、分からない。 いや、初めから正しいも何もないのだ。 これは罰なのだから。 だから、オリヴィエ様。 許して欲しいとは言えない。ただ、信じて欲しい。 私はオリヴィエ様のことも、ジュリアス様と同じように愛している。 今までも、そしてこれからも。 例え、言葉も想いも届かなくても、永遠に。
「私も、貴方が好きです」
【END】
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