「庭から摘んできましたカモミールのお茶なんですが、お口に合うかしら…。珀那さんもどうぞ召し上がれ!」 

「うわぁー私カモミール大好きなんです。お花もとっても可愛らしくて…。んーーいい香り。」 

「わたくしも良く飲むのです。突然お邪魔してしまったお宅で、カモミールティをいただけるとは思いませんでした。喜んでいただきます。」 

受け皿を手に、優雅に微笑むその目元は、伏せた睫毛が同色の瞳に被さり、霞がかかったような印象を与え、小鳥の様に僅かに傾けられた首筋は、男性らしくある程度の太さがある筈なのにも関わらず、女性よりもほっそりと繊細さを強調させる。 

ハーブの香りを楽しんでいた筈なのに、人間離れした美貌の男性を前にして、二人とも呆けたような表情で、息を呑んでしまう。 

しかし途中で我に返った原因は、この麗しの男性の身元を知りたいという、当然の様な欲望からだった。まず始めに口を開いたのは、ヴィクトールが教官だった事を知っているマーガレットだった。 

「あーー。ヴィクトールさんとはどのようなご関係でしょうか?とても軍関係者とは思えませんし、親族とも考えられないんですが…。」 

「あっ…何とお話すればよいのでしょうか。ヴィクトールさんとは、一時期、仕事上で同僚の様な物だったのです。…余り詳しくお話できなくて、心苦しいのですが…。」 

「そうですか…。では、お名前だけでもお教え下さいませんか?私はマーガレットとお呼び下さい。」 

「ああっ…私は珀那と呼んで下さい。」 

二人の女性は身を乗り出し、畳み掛けるように簡潔な自己紹介をする。 

咄嗟に偽名等思い付かない水の守護聖は、考える間を与えられずに目に見えてうろたえる。 

しかし二人の迫力に押されるように、ついに本当の名前が口から出してしまう。 

「あ…あの…リュミエール…と申します…。」 

お忍びで訪ねて来た為、本来なら守護聖だとばれてしまうのは大きな問題なのだが、名前だけでばれてしまう程、全守護聖の名前は有名ではないだろう。そんな期待を持っていたようなのだが、ヴィクトールが女王試験の教官だという事を知っている彼女には大変なヒントになってしまう事を、彼は知らない。 

一つ一つ言葉を慎重に選びながら答えるリュミエールに、それだけで想像がついたとばかりに喜びで紅潮した頬を両手で押さえるマーガレットを見て、珀那が慌てて耳打ちをする。 

『何々?どうしたの?あの方を知っているの?』 

『私の想像が正しければ、守護聖様の可能性が高いわ!優し気な雰囲気からして、水の守護聖様かもしれないわよ!それに、現在の水の守護聖様はリュミエール様というお名前だし…うふふっ』 

『きゃーーそれって…最高じゃないのぉぉーー。どうしよ。お化粧直さないと…ううん!それより絵を描かせてもらおっかなぁー。そうしよっと!』 

珀那は手元に置いてあったブランド物のバッグを引き寄せ中身を物色する。暫くして目的の物を探し当てたのか満面の笑みをマーガレットに向ける。バッグから引き出した艶やかな手元には、バイブルサイズのスケッチブックと携帯用画材が握られている。固形水彩とパレット・筆等が一体化されたタイプの物だ。 

その手元にある道具一式を、珍しくも見て取ったリュミエールは、同じ趣味の人間に出会えた素直な喜びで表情が明るくなる。 

「貴女も絵を嗜まれるのですね。わたくしも大好きなのです。どんな絵をお描きになるのですか?」 

「もちろん目の前の方ですわ!夕方まで時間がおありの様ですので、是非モデルになって下さいね」 

リュミエールの返事を待たずに、早速制作に取り掛かる珀那だった。 

「あ…リュミエールさん。もう少し左を向いて…そうそうその角度で…。洋服が地味過ぎるんだけど、ああっ…マーガレットさん何か肩に掛ける布か何かありません?」 

「うーーん…そうねぇ。あっ…水色の大判スカーフはシルクシフォンだから、雰囲気が合っていていいかもね…。」 

呆気に取られているリュミエールを尻目に、手際よく麗人の姿を整えていく。 

「あの…何故わたくしはこの様な…。これでは…まるで…」 

そう。その姿は即席ながらも、水の守護聖の衣装に似ていた。 

素性を隠していた筈なのに、何故この様な姿にされたのか…。彼は非常に不思議に感じていたのだが、二人の女性には既に身元がばれていたのだ。知らないのは当の本人だけ。 

「はいはい!深く考えずに肩の力を抜いて下さいね!」 

見る見るうちに数枚の下絵を描き上げ、水彩絵の具でラフに彩色していく。この絵は彼女にとって、只のラフだったが、見事な程に透明で儚げな風情が写し取られ、その上上品な色気を纏い息づいている。 

「はぁーー。前以上じゃない?珀那さんてば腕が上がってるよ。又始めたらいいのに…。」 

マーガレットは溜息を吐きながらどんどん増えていくラフ絵の数枚を手に取る。リュミエールが何か声を掛けようと口を開きかけるが声を飲んでしまう。既に断る事が出来ない雰囲気が彼の口を塞いでいた。 

「あの…ヴィクトールさんが帰りましたら、教えていただけますか?」 

もちろん!という表情で間髪入れず二人の女性が満面の笑みで大きく肯く。その姿は体格も顔立ち・年齢さえ違うのに、どこか双子を思わせる程似ていた。 
 



 

「ヴィクトール!今日は早かったんだね」 

「ああ…思ったより仕事がはかどったんだ。この所帰りが遅くなる日が続いていたから、その、気になっていたんだが…。どうした…お前、何かあったのか?」 

言葉には出さないが、どことなく拗ねた表情に敏感に気付いたヴィクトールは、視線を微妙に逸らしたセイランの柔らかく弧を描く頬に手をやる。 

「別に…何もないよ。それより覚えてる?来週の事。」 

「来週か?…来週…うっ…」 

一瞬の内に表情が硬くなり、それまで優しく頬を撫でていた手の動きが止る。 

「まさか…忘れた。なんて言葉は受け付けないよ。僕にとっては誕生日より大切な日なんだからね。」 

「時期的に言えば、女王試験が終わった頃だが…来週か…ん…あっ…そうか…ここに越して来た頃だな…。まさか引っ越し記念日か?」 

「…………当たらずとも遠からずってとこかな。でも僕が引っ越し記念日を誕生日より大切にしたくなる理由。そこまで聞いて考えつかないのかい!」 

その当時の事を鮮明に思い出したのだろう。みるみる浅黒い肌を朱に染めうろたえる。初めての夜の事でも思い出したのだろう。 

「あっ…うっ…すまん。その…なんだ…初めての……だな。その記念日か。」 

見苦しい程うろたえる大男を前に、形の良い横顔を見せ少し拗ねた表情のまま、横目でその姿を盗み見る。 

「そんなに鈍い人だとは思わなかったよ。そんな貴方だからリュミエール様との約束を安易にして、忘れているんじゃない!」 

「リュミエール様がどうしたんだ?俺は何も約束などしとらんが…。…まさかお見えになったのか?」 

先程の動揺が水の守護聖の名前一言だけで霧散し、たちまち彼の表情が強張ってしまう。別に怒っている訳でもないのだが、訪ねて来ただけで追い返したであろう事は簡単に推測できた。 

友人としてだけではなく、要人警護も兼ねる派遣軍の将校である彼にとって見れば、宇宙規模の重要人物を、預かり知らぬ事とはいえ、不用心にも放り出した事に変わりがないのだ。 

セイランの返事も待たず、懐のカードフォンを取り出し連絡を取り始めた。強ばった表情を隠すかのように、藍色の芸術家に背中を見せたのは、無言で責めているのではない事を伝える為だったのだろう。 

「ああ、俺だ。誰かから連絡は入っとらんか?…そうか…では水色の髪をした人物が、俺を訪ねてこなかったかどうか、調べてくれ。…ん…そうだ。本部全員に聞いてくれ。急いどるんだ。もちろん内密にだ。…すまんな、頼む。」 

会話が切れた事を確認し、カードフォンを定位置に戻そうと懐に手を入れた大きな背中に向って声を掛けてしまったのは、感情のまま行動してしまった自分に対して、叱責すらない事に不安を感じたからかもしれない。 

「僕はリュミエール様を追い返したんだよ。たった一人で来ていた事に気付いていたのに…。君は僕に対して怒った事ってないよね。それは…怒る価値がないからかい?」 

懐の広さも辛抱強さも並大抵でない事は知っている。そんな彼とだからこそ、一つ屋根の下で生活が出来ているという事も、そんな所にどうしようもなく惹かれたという事も…。 

それでも時折不安に襲われる。時には自分に向って感情を爆発させて欲しいと。そんな無い物ねだりの様な相反する心は、こんな時に不意に沸き上がってしまう。 

「俺は…お前を怒る事などできん。何故なら…もし、お前の留守中にオスカー様が訪ねてきたら、俺は自分を押さえられんからな…。こればっかりはどうしようもない。」 

背中を向けたまま低い声で絞り出す様に紡ぎ出される言葉と共に、雄弁に語る背中は少し強ばり、微かに震えていた。 

「ヴィクトール…君にも…そんな感情があったなんて…。僕は我が侭だよね。今の言葉…僕にとって、何よりも嬉しいよ。」 

溢れかえる衝動で、逞しい背中から不意にぶつかるように抱き付く。まわりきらない両腕に、言葉にならない気持ちを必死に込める。 

「はははっ…お互い様って奴だな…心配するな。俺が何とかするからな…。」 

自分の胸にしがみつく繊手に分厚い傷だらけの暖かい手が、優しく包み込む様に数回叩かれる。 

「もうすぐ日が暮れる。気温も下がるからお前は家で待っていろ。俺は少し近所を当たって来るからな。何かあったら連絡を入れる。…心配するな。」 

不意に向き直り藍色の絹に似た髪を優しく梳きながら、掠めるように瞼にくちづけ、そのまま風の様に外に飛び出して行った。 

「ヴィクトールも…嫉妬…するんだ。」 

暮らし始めて一年経った今、初めて経験する甘酸っぱい想いに、一人微笑みを押さえ切れないセイランだった。 
 



 

ヴィクトールは悩んでいた。隣家の門前で腕組みし、暫く悩んでいる。 

その家は彼の予測を尽く裏切る行動に出る女性なので、できうる限り接触を避けていたのだが、今のこの事態を前に避ける事は出来ない。 

門を開け庭の中に入り込む。最初に訪れた時の雑然とした印象は跡形もなく、今は綺麗に手入れされた庭に花が咲き乱れている。 

その花々を横目に扉を叩く。 

「はーーい。どちら様でしょうか?」 

「隣のヴィクトールですが…。少々お尋ねしたい事がありまして。」 

「ああっ…ヴィクトールさんですね!開いてますから、どうぞお入りになって!」 

相変わらず不用心な事に鍵すら掛けていない様だ。ゆっくりとノブを回し足を一歩踏み入れる。 
 
以前訪問した時と変わらぬ可愛らしい装飾が施された室内は、懐かしいカモミールの香りが辺り一面漂っている。そうしてふと、庭先に咲き乱れていた黄色い花芯と白い花弁を持つ愛らしい花がカモミールだったと思い出していた。

花には詳しくない彼が唯一知る事が出来たのは、水の麗人がお茶を勧めながら花を見せてくれたからなのだが…。

一時程、聖地での日々を思い返したその時、目の前に見覚えがある小柄な女性が微笑みながら見上げている事に気がついた。軽く目礼し、視線を移すと明らかに初対面の若い女性が後ろからやってくるのが確認できた。

マーガレットより遥か年下の女性は、細身の体に柔らかそうな栗色の髪が印象的で、外見から言えば二人は対照的と言って良いだろう。だが、二人に共通する点は好奇心に溢れた瞳の色だった。明らかに興味のベクトルが同じ方向を向いていると感じさせる空気を感じる。

「丁度良かったわ!ヴィクトールさん。そちらに伺おうと思っていたんですよ。…ああっ…こちらは、私の古い友人の珀那さんです。珀那さんこの方がお隣のヴィクトールさんですのよ。」

「はじめまして、ヴィクトールです。お客様がおいでとは知らず失礼しました。」

「……はっ…珀那です…。はぁぁぁーー光栄です。いえいえ…はじめまして。」

型通りの挨拶を済ませ、早速用件を切り出そうと口を開き掛けたヴィクトールの唇は、途中で固まってしまった。尋ね人の声を耳にしてしまったからだ。

「ヴィクトール…。お会いしたかった…。わたくしです。リュミエールです。」

中庭にあるテラスからの扉を開き、不思議な格好の水の麗人がゆったりとした足取りで近づいてくる。

瑠璃色のソフトパンツの上は、淡い水色のシルクニット素材のシャツを着ているらしいのだが、首から胸元まで半透明に見える薄布を幾重にも巻き付けられ、胸から上だけをみれば、聖地で見た彼の印象そのままだ。だが髪型はゆったりと頭頂部まで複雑に結い上げられ貴婦人を思わせる。ほっそりした首筋には幾筋か後れ毛が遊び、中性的な色香を纏いつかせている。気付けば口元には淡い桃色の紅までさされている。

こんなリュミエールの姿を見てしまったのは初めてで、目のやり場に困るほど清楚で妖艶な相反する魅力を撒き散らしていた。

「うっ…何故この様な…お姿に…。」

「ああ…お二人に絵のモデルになって欲しいと…。とてもご親切にしていただきましたので…。」

抗議の言葉が口から出かかったその時、二対の視線に気付く。

二人の女性は、物言いたげでなお且つ興味深々といった視線をぶつけてくる。直接言葉で問い詰められないだけに、無言の迫力がある。

(その方は守護聖様でしょ!それも水の守護聖様。感性の教官を手に入れて、その上水の守護聖にも言い寄られて…なんて華麗な三角関係。一体どちらが本命なの?)

雄弁な視線は、直接頭に響いてくるようで、思わず目眩がしてしまう。やはりこの隣人は俺にとっての鬼門だ。そう確信を持ったヴィクトールは、早々にリュミエールの肩を覆う布を無言で剥がしていく。髪型も戻して欲しかったが、複雑すぎて彼には手に余ってしまったので、この際無視する事にし、懐の白いハンカチを取り出し、唇の彩りを手早く拭う事に専念する。

『はぅぅーーなんて素敵な光景。お似合いねぇ。珀那さん、これもイラストにして欲しいんだけど…』

『うぅぅ…描きたいんだけど、ヴィクトールさんタイプって、私苦手なのよ…。』

『えぇぇーー残念。私精神様ってタイプなのになぁーー時間かかってもいいから、今度描いてね』

『んーー。頑張るけど、怒らないでね…。』

新たな煩悩カップルを前に、二人の女性がこそこそと耳打ちをする横で、着々とリュミエールは元の姿を取り戻していた。

「さあ、戻りましょう。俺がお送りします。マーガレットさん、珀那さん。ご迷惑を掛けました。賢明なお二人は軽々しく口外などしないと、信頼していますよ。では失礼。」

「美味しいお茶をありがとうございました。楽しい時間を過ごせた事、感謝しております。では、ごきげんよう…。」

慌ただしく挨拶を交し、水の麗人は逞しい腕に背中を支えられ玄関を後にした。

一陣の風の様に、お似合いカップルは去っていった。熱い同人魂を持つ二人の女性に煩悩の炎を残したままで。

「私、又書くよ…。精神×感性VS精神×水。もう誰も私を止められないわ。王道でないのなら、これから王道にしてやるわ…。珀那さんもやらない?」

「描きたい!描きたいんだけど、精神様…描くのが当面の問題かも…でも頑張るよ!一度足を洗ったけど、生やおいを見ちゃったら、描かずにおれないもん。同人出そうよ。」

その時、熱い煩悩と友情の誓いを硬く交わし合った二人の、大切な記念日となった事は、モデルの三人には思いもよらない事だった。
 



 

それから一週間後、ヴィクトールとセイランの大切な記念日当日。隣人のマーガレット邸に一通の添付メールが届いた。

珀那からのメールだ。近所なのだから持ってきても構わないのに…。そう思いながら開いた文面には、一言(お願いだから怒らないで(T_T))の一行だけ。添付の画像ファイルをクリックした直後、液晶画面に映し出されたイラストを見てのけぞり、一瞬遅れて盛大な笑い声がいつまでも響き渡っていた。

どんなイラストだったのか…。ここでは彼女の名誉の為に内緒にしておきましょうね。


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