続 隣人 
主星の行政区に程近い高級住宅街。 

ここの住人の殆どが、主星の中央官庁や、それに関連する業務に従事し、且つそこそこの地位に就いている者が、住む町である。 

ただ、昔から有名な高級住宅街とは異なり、ここ数十年で開発された場所なので、立ち並ぶ建物は、まだまだ新しく、かといって町並みから浮いてしまうほど、新品という感じを与えない。 

行政区から片道30分圏内の限られた土地を、贅沢にもそれなりの土地を占有し、一軒家に住んでしまう事自体、大変稀な事なのだ。 

住宅街を散策すると、垣間見る事が出来るのは、住人それぞれが意匠を凝らした季節の花々が咲き誇る庭だ。辺り一面に漂う香りは、持ち主の愛情が忍ばれる。 

午後の穏やかな昼下がり。必要以上に広く取られた道は、瀟洒な石畳で飾られ、ポプラや欅等の広葉樹が、柔らかな木陰を等間隔に落している。 

そんな木陰では、どこからか三々五々集まってきた主婦達の、良い立ち話の場所を提供し、のんびりとした買い物途中や、あるいは買い物帰りと思しき女性達が、何やら楽し気に談笑している。 

そんなに話がしたいのなら、誰かの家でお茶でも飲みながら話をすれば良いのだろうが、いつ参加し、又は自由に抜ける事ができる。そんな気安さが井戸端会議の魅力なのだろう。 

特に同年齢の主婦が多いこの町では特にそうだ。 

中流階級ならば、辺りに子供が駆け回り騒がしい限りなのだろうが、自宅に専属のナニーが常駐し、子供の教育全てを任せている彼女たちは、充分に自由な時間を満喫している。いや…持て余しているのかもしれないが…。 

元同人女マーガレットは、ちょうどそんな中、人垣に近づきつつあった。 

彼女は週に3回程顔を出す、お気に入りの大型書店へ買い物に出かけた帰りである。必ず書籍を買うわけではないのだが、月初めのこの時期、お気に入り作家の連載小説が軒並み発売され、珍しくも両手に紙袋を抱えて家路に着く途中である。 

無理に自分で持ち帰らず、自宅に届けて貰っても良いのだ。帰宅する時間に合わせて配達されるサービスもある。だが、思い入れのある本は、彼女にとっては宝石に等しいほど大切なので、大抵は自ら持ちかえる事にしている。 

両手にずっしりとするその重さが、彼女を高揚させる。心から本を愛しているのだろう。彼女の夫は、王立図書館の司書で、その辺りの感情を解ってくれそうなのだが、どうも理解の範疇外の様で、自宅を日々占領していく本の数々を、苦い思いで眺めている事が多い。 

仕事中嫌でも本に囲まれているのに、寛ぐ筈の家庭まで本に埋もれたくない。というのが本音の様だ。 

大抵この夫婦の喧嘩は、本の事が主題になっているのだから、充分変わった夫婦なのだろう。 

「あっちゃーーあんなに溜まってるよ…適当に挨拶して、逃げるか…。」 

別に彼女は人間嫌いという訳ではない。結婚前勤務していた職場の同僚とは未だに付き合いが続いているし、お喋りも大好きだ。 

その勢いで、二三度井戸端会議に参加したのだが、話題が限られていて立ったまま居眠りしたくなる程だった。きっちり決まった様に、夫の仕事や地位の話。我が子の優秀さをあたかも自分の遺伝子のお陰とばかりに自慢する。まだペット自慢の方が微笑ましく感じる程だ。 

呆れ果て、ついには二度と輪の中に入らなくなってしまった。これ以上話を聞いていたら、気の強い自分が、取り返しの付かない爆弾発言をしかねないからだ。 

いつもの通り、軽く会釈だけして通り過ぎようとした…その時、遥か昔の記憶に微かに残る顔を、人垣の中に発見した。 

記憶の中のイメージよりは、ずっと大人びて淑やかな女性に見えるが…あれは…。歩みを止め、思考を巡らす。 

同人誌即売会の会場で出会った彼女ではないだろうか。その当時の彼女はまだ高校生で、ボーイッシュなショートカットが良く似合う、目立って細身で長身の溌剌とした女の子だった。その彼女の面影がよぎる。 

その時、くだんの女性がマーガレットの視線に気付き、微笑みながら近寄ってくる。 

「あの…以前お会いしましたよね。ほら…私あの頃"珀那"って名前を使ってたんですけど。」 

セミロングの髪を柔らかく揺らしながら、首を傾げて小声でマーガレットに話し掛ける。 

「あっ…思い出した。私貴方のイラストが大好きだったのよ!一度お願いしたかったんだけど、いつも急がしそうだったから、声を掛けられなかったのよ。」 

瞳の色と同じ、栗色の髪をより一層振り乱していたのは、彼女が興奮していた為だろう。瞳の輝きが増す。 

「そんな…私、頼まれていたら幾らでも描いたのに。私こそ貴方のお話が大好きで、あの頃の同人誌全部持ってるんですよ!」 

今にもピョンピョン飛びはねんばかりだ。興奮しているのはマーガレットも同じで、相手の手を握り締めて離そうとしない。 

「…こんな偶然…信じられない。これから、私の家に来ない?ここから数分なのよ。ね!行きましょう!美味しいお茶とお菓子をご馳走したいの。ううん…それよりお話したいわ!」 

少し冷静さを取り戻したマーガレットは、井戸端会議の話が途絶えていた事や、遠慮がちな視線が集中している事にも気付いていた。この視線から逃れる事が、現在最優先事項である事を…。 

想いは一緒だった様で、彼女も喜び勇んで訪問する事を承知した。但し話に夢中な二人は、亀の歩みだったのだが…。 

「ねぇ…マーガレット。前を歩いている人って、女性かしら…。それにしては長身よね!でも…なんて綺麗な人なんでしょう。それに見た事がない程、珍しい水色の髪…。うっとりしちゃう。」 

ようやく自宅の近くなのだが、今まで出会った憶えがないので、どこかの家への訪問者だろう。マーガレットの家と、その隣のヴィクトールの家の間をゆっくり往復しているかに見える。 

「私の知り会いではないから、お隣なのかしら…それにしても目眩がする位綺麗な人ねぇ?。声掛けてみようか。迷っているみたいだから。」 

彼女も同じ考えの様で、力強く同意する。お互い美しい男は大好きだ。 

「あの…どうなさいました?」 

マーガレットの別人の様なよそいきの優しい声に、初めて男性がこちらを向く。その姿は輝く様な水色のオーラに包まれている様で、眩しくて自然に目を細めてしまうほどだ。明るい日差しを浴びた、眩いばかりの薄水色の髪のせいばかりとは言えない。一般人とは明らかに違う力に満ちた輝きは、とても優しく心地よい物だ。 

「ああ…申し訳ございません。道に迷ってしまった様なのです。…この近くにヴィクトールさんの家があるかと思うのですが、表札が見当たらないのです。…ご存知でしょうか?」 

囁くような優しい声音は、やや高いながらも確かに男性の持つ物だ。それでも労りたくなってしまうのは、彼の持つ人柄や、儚げな風情のお陰だろうか。少し歩きつかれた様子で、力無くふせられた長い水色の睫毛が、時折震える様は、溜息を誘う。お陰で二人の女性は思考が停滞してしまったのか、無言のまま目前の佳人を息を詰めて見詰めてしまう。 

「……ああっ…ヴィクトールさんのお宅でしたら、…ほら…こちらですよ!家のお隣ですから、間違いありません。…そういえば、表札は出ていなかったんですよね…。」 

「はぁーこちらだったのですか。ご親切にありがとうございます。」 

暗い水底に一筋の光が射し込む様な、明るい微笑みを浮かべ、丁寧にお礼をするその姿に、またもや目が釘付けになってしまう。水の妖精ウンディーネの歌声に魅入られた船乗りの気持ちが痛いほど理解出来てしまう二人だった。 

ぼーーっと見とれる二人を残し、ゆっくりと目的の家に入っていく。暫くするとチャイムの音が微かに聞こえ、扉が開く音がする。ちゃんと訪問する事が出来た事を確認し、女性二人はふらふらと、マーガレット邸の門を開けたその時。 

隣家から突き刺さる様な拒絶の声が響き、慌てて二人は庭にまわり庭木の隙間から隣を伺うように覗き込んでしまう。面白い事に示し合わせた訳でも無いのに、二人揃って同じ行動を取っている。高さの違う二対の視線が隣家の玄関先に注がれた。 

「何しに来たんですか?暇さえあれば手紙を寄越すし、その上守護聖様直々にご訪問ですか。暇つぶしの相手になれる程僕達は呑気ではないんでね!帰ってもらえませんか!」 

「セイラン…あの…わたくしは、ご迷惑をお掛けするつもりなど…。ただ、ヴィクトールさんが気になっただけなのです。」 

「それが迷惑だというんですよ。相変わらず無神経な人ですね。明るい内にお帰り下さい…じゃあ、お元気で!」 

水の麗人がのんびりと口を開きかけた鼻先で、乱暴に扉が閉まる。肩を落し憂い顔のまま扉に背を向け門に向い、楚々とした足取りで歩き始める。 

その麗しの姿を覗き見ただけで、胸が掻き毟られる想いがする二人の同人女は、互いに耳打ちをし、何事か決心したかのようにうなずき合い、隣家の門前まで駆け出していた。 

「待って下さい!ヴィクトールさんなら、夜にならないと戻りませんよ!良かったら家でお茶でも飲んで待ちませんか?」 

必死の表情で誘い掛けるマーガレットの隣には、同人時代”珀那”と名乗っていた女性が同意する様にこくこくと頭を動かしている。しかしその表情から察するに、頭の中で既に妄想に溢れたイラストイメージを膨らませてるのだろう。既に視線が定まっていない。 

彼女が得意としていたイラストは、どんな完璧攻めキャラであろうとも、儚く繊細な受けキャラとなってしまう魔法に満ちた印象があり、目の前の麗人はそんなイラストから抜け出して来た様な感慨を持たせるからだろう。頭の中で膨らませた妄想が抜け出して息をし、歩いているのだから、呆けてしまっても仕方がないだろう。 

「でも…先程お会いしたばかりですのに…ご迷惑でしょう。それに、突然連絡もなしに訪問してしまったわたくしがいけないのです。お優しいお心だけ戴いて、わたくしは帰ります。」 

「事情は解りませんが、ヴィクトールさんはお優しい方ですもの。堅苦しい事など気にする方とは思えませんよ!ご遠慮なさらずに…さあーー。」 

「そうですとも!マーガレットさんがここまで断言する方ですから、心配なんかいりませんよ。…それに…これも何かの縁じゃありませんかっ!」 

見目麗しい男性を前にして、みすみす取り逃がすような二人ではなかった。お互い左右それぞれの腕を抱えて、マーガレット邸の門前まで強引に引っ張って行く。 

水の守護聖は儚げな外観だが、そこは一応男性だ。女性二人の力に易々と引き摺られるほどか弱くはないのだが、好意で差し出された腕を、無理矢理振り解くなど出来よう筈がない。自身が優しさを司るだけあって、他人の優しさにも敏感なのだ。ほとんど抵抗らしい抵抗すらせず、引き摺られていく。 

「ああ…そんなに引っ張らなくても…。では、お二人のご厚意に甘えさせていただきます。」 

ようやく安心して掴んでいた腕を放した二人は、それぞれ何やら言いた気な視線を絡めあい、にんまりとほくそえむのだが、余りに身長差があるせいだろう。リュミエールには気付かれなかった。 
 



 

「まったく…あの方ときたら…何の為にのこのこ、こんな所までやってくるんだよ。それにあんな表情をされたら、まるで僕が悪人の様じゃないか。自覚がないにも程があるね…。」 

防音室に置かれたピアノの前に立ち、鍵盤をほっそりとした指先で脈絡もない音を紡ぎ出す。 

後一週間で二人の大切な記念日がやってくる。その日の為に曲を作ろうと、珍しい事に朝から白紙の楽譜を片手にピアノの前に陣取っていたのだった。 

二人にとって大切な記念日。それは言ってみれば結婚記念日の様な物である。 

女王試験終了後、二人で暮らす家を捜す為駆け回り、この家を探し当てた。引越し当日の夜寝室で待ち望んでいた夜を伴にし、心身共に暮らす事になったのだ。短期間であったが、めまぐるしい程の出来事が二人を襲ったのだが、その話は別の機会に語られるだろう。 

その日が丁度一年前だったのだ。彼にとって大切なその日を飾る為の最高の曲を作ろうと、奮闘しているその時に、一番来て欲しくない人物が来てしまうのだから、彼の怒りも苛立ちも当然だろう。 

すっかり集中力を削がれてしまった。折角浮かび掛けた旋律も霧散し、誰も覗く筈のないこの場所で、少年の様に頬を膨らます。暫く鍵盤を見詰めて気まぐれに音を叩いていた彼は、何を思ったのか、本格的に椅子に腰掛け、思い付いた曲を片っ端から弾き始める。 

今日は早く戻る筈のヴィクトールが帰って来るまでの間、余計なことを考えない為なのだ。 

始めは怒りを叩き付ける様に…。その内演奏という行為に惹き込まれ、没頭した彼は心持ち面を上向かせ、瑠璃色の瞳を塞ぎ額には薄っすら浮かんだ汗で数本の短い藍色の髪が張り付き秀麗な額を飾っていた。 

「ヴィクトール…憶えているかな…。僕達の記念日の事…。」 

 
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